第26話 利助と栄太郎
また利助も自身を取り巻く事情が大きく変わっていた。
水井家の中継養子であった武兵衛が中間株を買って独立し、名を伊藤直右衛門へと改めたのだ。
それを機に武兵衛の代役を務めていた利助の父十蔵は母琴子共々直右衛門の養子となったため、利助も伊藤家に移り林から伊藤へと姓を変えることとなった。
また伊藤家の一員となったことで利助の経済事情も幾分か楽になり、松本村にあった久保塾へ通学して再び学問に取り組めるようになったのだった。
「お前は本当に学問好きだのう、利助」
久保塾から帰る途中、利助の隣を歩いていた同門の吉田栄太郎が感心したように言った。栄太郎とは久保塾に入って以降すっかり仲良くなっていた。
「塾に入ってわずかひと月足らずで番頭になるとは! こりゃ久保塾の神童であるわしが先を越される日もそう遠くないのかもしれんの」
栄太郎は冗談めかした口調で言った。
「いんや、わしはまだまだ栄太には遠く及ばん。栄太から前に借りた頼山陽の『日本政記』はおろか、『日本外史』も読破できちょらんからの」
利助は栄太郎の賛辞を否定しながらもどこかうれしそうな様子だ。
「おお、すっかり忘れとった! そういやわしが以前貸した『日本外史』は一体どこまで読んじょるんじゃ?」
利助に貸していた本の存在をふいに思い出した栄太郎は興味津々な様子で尋ねた。
「何とか毛利家の記述の箇所まで読みすすめたところじゃ。お蔭で元就公の偉大さを改めて認識することができた」
利助は自信たっぷりに言った。
「特に厳島で元就公が陶晴賢を破ったのは、かの織田信長が今川義元を桶狭間で破ったことに匹敵するとわしは思うちょる!」
利助は興奮しながら『日本外史』を読んだ感想を語った。
「利助もそう思うか! わしも初めて読んだとき同じことを思うたわ。やはり元就公に匹敵する武士はおらんのう!」
栄太郎は利助と考えが一致したことがよほどうれしかったのか、かなり鼻息が荒くなっていた。
「はは、まっことその通りじゃの! ところで栄太が以前江戸で黒船を見たとゆうんは本当なのか?」
利助は栄太郎に対し唐突に尋ねた。
「前に塾の連中がゆうちょったのが気になっての、一度聞いてみたかったんじゃ」
「ああ、遠目じゃったが確かに見たぞ。ペルリの黒船が昨年品川沖に姿を現して騒ぎになったあと、藩からの命令で大森海岸の警備に駆り出されてのう……煙をはいちょる様子はまるで得体のしれぬ化け物のようじゃった」
栄太郎は途中言葉に詰まりながらも落ち着いた口調で利助の問いに答えた。
「おお、黒船がそねーな化け物じゃったとは初耳じゃ! わしも一度江戸に行ってみたいのう!」
栄太郎とは対照的にますます興奮した様子で利助が尋ねた。
「利助も藩からのお許しがでれば行けるやもしれんぞ。とにかく江戸は広くて人が多い場所じゃ。事前に下調べもせずに行ったせいで何度道に迷うたことか」
栄太郎は苦笑いしながら言うと続けて、
「じゃが江戸に行くんはええ経験になるぞ。いろんな物や人に触れ合う機会が生まれるからの。ではわしは家の用事があるけぇ、また明日塾で会おう」
と言い残して小走りで家に帰って行った。
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