第6話 久保塾の吉田栄太郎

 橋本川、萩の川島を始点として玉江や平安古に沿って流れ、萩城前の日本海へと注ぐこの川のほとりに秀三郎は一人たたずんでいた。

 彼も晋作同様、昨夜家を抜け出してこっそり法光院に忍び込んだことがばれてしまい、父の良廸と兄の玄機にこっぴどく叱られ気を落としていた。

 やるせない気持ちを晴らすべく、秀三郎が川原の石をつかんで川に向かって投げ始めたとき、複数人の少年達が後ろから彼に近づいてきた。

 そしてそのうちの一人がふいに、

「そこにおるのは吉松塾の高杉晋作か?」

 と声をかけた。

 秀三郎ははっと驚きながらも、

「違うっちゃ! わしは久坂秀三郎と申す。高杉晋作は吉松塾の同門で、彼とは知己の間柄じゃ!」

 と毅然とした態度で質問に答えた。周りはすでに少年たちに取り囲まれてしまっていた。

「なるほど、お前があの吉松塾始まって以来の秀才と名高い久坂秀三郎か。わしは久保塾の吉田栄太郎じゃ!」

 久保塾は久保五郎左衛門が萩郊外の松本村で開いていた私塾であり、後に吉田松陰が塾主となる松下村塾の前身でもあった。栄太郎が今回引き連れてきた少年たちもどうやら彼と同じ久保塾の同志みたいだった。

「ここには暴れ牛の高杉晋作に果し合いを申込みに参った! 高杉に会うたら伝えよ! 明後日の昼九つに松本川の川原で吉田栄太郎が待っちょると!」

 栄太郎はそう言うと何をするでもなく、他の少年たちを引き連れて河原から引き上げていった。


 翌日、秀三郎は法光院の門前に晋作を呼び出し、例の久保塾の栄太郎の一件について余すことなく全て話した。

「一体どねーする気なんじゃ、晋作?」

 秀三郎が栄太郎の一件について話し終えると心配そうに尋ねた。門前には彼らの他に、恵運住職に言われて落ち葉を箒で掃いている利助もおり、話の内容を盗み聞きしていた。

「久保塾の吉田栄太郎といえば学問はさることながら、柳生新陰流の達人でもあると噂で聞いちょるぞ。本当に果し合いを受けるつもりなんか?」

 秀三郎は過去に兄の玄機と供に松本村に出向いた時、浪人らしき男について本格的な剣術修行をしている栄太郎を見かけたことがあったため、不安をぬぐいきれずにいた。 

「栄太郎如きどうということはないっちゃ! 向こうが果し合いを望むんなら受けて立つまでじゃ!」

 晋作は微塵も恐れていないといった様子であった。大人の侍を負かし、真夜中に法光院に忍びこんだ彼からすれば、栄太郎など小物同然に見えてしかたなかったのだ。

「晋作は本当に勇ましいのう。じゃが栄太郎は恐らく一人ではなく久保塾の連中を引き連れて川原に来よるに違いない。用心にこしたことはないけぇ、こちらも塾の連中を引き連れていった方がええじゃろう」

 秀三郎は橋本川の川原で栄太郎たちと遭遇したときのことを思い出しながら、晋作に忠告した。

「なるほど、お前のゆうちょることも最もじゃ。そいならお前から塾の連中にわしの果し合いに付きあってくれるかどうか尋ねてはもらえんか?」

 吉松塾内において、暴れ牛と仇名されている自分よりも秀三郎の方が人望あることを知っていた晋作は彼にそう頼んだ。栄太郎一人ならまだしも、徒党を組まれて挑まれてはさすがに厄介だったからだ。

「承知した! わしが塾の連中を説得して必ず当日の果し合いに同行させちゃるけぇのう!」

 秀三郎は力強くそう言って晋作と別れ家に帰宅した。


 約束の日の昼九つ、栄太郎が果し合いをすべく松本川の河原で木刀片手に久保塾の同志たちと待ち構えていると、晋作が秀三郎を始とした吉松塾の面々を引き連れて姿を現した。秀三郎の説得が功を奏したのか、塾生の半分近くが晋作に付き従って河原にやってきたのだった。

 また松本川の土手には果し合いの話を盗み聞きしていた利助が見物に来ていた。

「怖気づかずに来たようじゃな」

 栄太郎は眼光鋭く晋作を睨みながら言った。

「わしは高杉家の男子、貴様如きにひるみはせぬ! じゃがなぜわしに果し合いを申し込もうなどと思うたのか、それだけが気がかりで仕方がない!」

 一定の距離を保ちながら晋作は栄太郎に言った。

「わしは松本村では負けなしじゃが、最近相手になる者がおらんようになって退屈しておったんじゃ! そねーな時に暴れ牛と呼ばれちょる強者が吉松塾におると聞き、ぜひ興味がてら手合せを願いたく果し合いを申し込んだ次第じゃ!」

 栄太郎は意気揚々と晋作に動機を語った。

「なるほど、それは光栄なことじゃ! じゃがお前如きではわしにかすり傷を負わすこともできんぞ!」

 晋作が栄太郎に対して豪語した。

「望むところじゃ! 誰にも手だしはさせぬ。わしとお前の一騎打ちで果し合いをしよう!」

 栄太郎はそう言いかえして木刀を中段に構えた。柳生新陰流の達人と噂されるだけあり少年ながらなかなかの気迫であった。

 晋作も家の倉から拝借した木刀を構え、ついに果し合いが始まった。

皆が固唾をのんで見守る中しばらくにらみ合いが続いたが、沈黙を破るように栄太郎が間合いをつめて晋作に打ち掛かってきた。

 晋作はそれを防いだあと半歩引いて栄太郎の小手を打とうとするも躱されて、逆に小手を打たれてしまった。

 晋作は腕の痛みで顔をゆがめながらも栄太郎の胸をめがけて突きを放ったが、これも木刀ではじかれて逆に右わき腹を打たれてしまった。

「どねーした? もう終いか? 口ほどにもないのう!」

 右わき腹を抱えながら間合いをとって木刀を構える晋作に向かい、栄太郎は挑発するかのように言った。秀三郎ら吉松塾生たちや土手の上の利助は不安そうな様子になって果し合いの展開を見ていた。

「……何を言いよる! 勝負はこれからじゃ!」

 痛みに耐えながら晋作が強がりを言うと栄太郎は容赦なく木刀を打ち込んでいった。まるで嵐のように留まることのない栄太郎の斬撃を晋作は必死に捌ききり、河原の石につまづき栄太郎の動きが止まった一瞬の隙をついて、ついに彼の肩に木刀を叩き込んだ。

 皆がその光景にあっけにとられる中、栄太郎は肩にはしる激痛で木刀を落としてしまい、眼前に木刀の切っ先を向けられてしまった。

「はあはあ、河原の石につまづくとは不覚であった! 今回の果し合いはお前の勝ちじゃ!」

 打たれた肩を押さえながら栄太郎は晋作に敗北したことを認めた。果し合いの様子を見ていた他の久保塾の同志が栄太郎を心配して側に駆け寄ってきた。

「お前もなかなかの腕前じゃ! 一歩間違えば負けていたのはわしの方じゃったかもしれん……また機会があったら果し合いをしよう!」

 そう言って塾の仲間たちの肩を借りながら河原をあとにする晋作の姿を栄太郎はいつまでも目で追い続けた。


 それから数日後。

 萩の菊ケ浜海岸で晋作は一人黙々と木刀を素振りしていた。栄太郎との果し合いにはなんとか勝利したとはいえまだまだ剣の腕が未熟であることを悟り、傷が癒えた直後から日課として毎日百回の素振りを己に課していた。辺りには誰もおらず静寂そのものであり、木刀が風をきる音だけが聞こえた。

「こねー早う朝から素振りとはまっことお侍の鑑じゃのう!」

 先の果し合いを見物していた利助が姿を現し、熱心に素振りをしている晋作に声をかけた。利助はすっかり晋作に心酔しきっている様子であった。

「わしはまだまだ未熟じゃ! 未熟じゃけん人よりもたくさん鍛錬して強うならねばいけんのじゃ!」 

 利助に目もくれず晋作は素振りを続けながら言った。

「見ておれ! いつか栄太郎だけでなく他の誰にも負けん強い侍にわしは必ずなっちゃるけえのう!」

 晋作は力強くそう宣言すると、口を完全に閉じて木刀を素振りすることに没頭した。

 そして利助はその光景をただ黙っていつまでも見続けた。この破天荒な少年がいつか長州を、いや日本の歴史そのものを大きく変えてしまうことになろうとは、この時の利助にはまだ想像することもできないことであった。

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