透明な恋のはじめかた
永坂暖日
前編
帰宅部で、委員会の活動も今日はない
「あれ、山崎じゃねえ?」
大倉が数十メートル先を歩いている男子生徒を指さした。山崎は一緒に帰っていたメンツの一人だ。最近は授業が終わるとそそくさと教室から去っていた。
「ほんとだ。山崎だ」
透にも友人の後ろ姿はすぐにわかった。
「あいつ、親に送ってもらってるんじゃなかったのかよ」
根本が、まるで裏切り者を非難するような声で言った。
山崎は一ヶ月前に自転車にはねられて足を骨折した。松葉杖は必要なくなったが、まだ親に送迎してもらうからさっさと教室を出るのだと思っていたのだが、違うらしい。
だが、根本が非難しているのはそこではないだろう。完治していないのでまだぎこちない歩き方をしている山崎の隣にいる女子生徒。その存在が山崎を裏切り者たらしめていた。
彼女は自転車を手で押して山崎と並んで歩いている。女子と二人きりで帰るだけでもただ事ではないというのに、単なるオトモダチです、などと後で言われてもとうてい信じられない状況だった。
透も根本も大倉も彼女がいない。山崎もそうだと信じていた。
「山崎の奴、抜け駆けしやがって! 骨折して彼女ができるなら、おれも骨折りたい!」
「骨折は関係ないだろ、根本……」
「そこの神社でお願いしたら? 最近女子の間で噂になってるじゃん」
大倉がちょうど通りかかった鳥居を指さした。毎日ここを通っているものの、名前も知らない小さな神社である。奥の小さく古ぼけた社の前には数人の女子生徒の姿があった。
「女子って縁結びとか好きだよな」
普段は誰もいなさそうなこの神社が、女子の間で縁結びの御利益があると話題になっているのは、透も知っていた。
「誰かおれとの縁結びをお願いしててくんないかなぁ」
「おまえがお願いしに行くんじゃないのかよっ」
ため息をつく根本に大倉がつっこむ。
帰る方向が一緒なのはそこまでだったのか、数十メートル先の交差点で、山崎が自転車で去っていく女子生徒に手を振っていた。
●
スマホのアラームが枕元で鳴り続けている。布団の中から腕を伸ばし、引き寄せるようにスマホを掴む。開ききっていない目で睨みつつ、画面に指を滑らせ――透は目を見開いた。
「え?」
思わず声がこぼれる。アラームは止まった。だが、画面を操作したはずの自分の指がない。いや、画面に触っている感触はある。ないのではなく、見えないのだ。よくよく見れば、スマホ本体を掴んでいる手も見えなかった。
「え、え? なんで?」
透は飛び起きてパジャマの袖をまくり上げた。まくる腕も、まくられた腕もなかった。部屋は寒いが、かまわず全部脱ぎ捨てる。足も胴体も、見えない手で触れば確かにそこにあるのはわかるのに、見えなくなっていた。
正確に言えば、見えないのではなくて、透明になっていた。よくよく見れば、腕や足の輪郭がなんとなくわかる。
水やガラスが、透明だけどそこにあるとわかるのと一緒だ。光の屈折率が違うから、透明だけど見えるんだっけ。
透の部屋に鏡はない。適当に制服を着込んで洗面所に駆け込んで、今度こそ絶句した。
腕や足が透明になっていたからある程度予想はしていたが、鏡に映っていたのは制服だけだった。透の体の輪郭はなんとなくわかる程度である。頭のてっぺんからつま先まで、透の体は水よりも透明になっていた。
どうしていきなり透明になったんだ。もしかしてこれって夢なんじゃないのか。ふつうにあり得ないし。
「透、何してるの。朝ご飯できてるよ」
母親が怪訝な顔で洗面所をのぞき込む。透は、とっさにしまったと思った。自分でも訳のわからないこの状態を見たら透のように、あるいはそれ以上に驚くかもしれない。
「か、母さん。信じられないだろうけど、おれだよ、おれ」
なんか詐欺の電話みたいなせりふだ、と言ってから気付く。
「そんなことわかってるわよ。何やってるの。さっさとご飯食べなさい。遅刻するよ」
「あの……驚かないの?」
「なにを」
「おれ、透明になってるんだよ?」
母親のあまりの反応のなさに、もしかして透明に見えているのは自分だけなのかという疑念が湧く。
「見ればわかるわよ」
何を当たり前のことを、と言わんばかりである。
「いやいやいや。ふつう透明にならないだろ。なったら驚くだろ!」
「いちいちそんなことで驚かないわよ。それよりさっさとご飯食べなさい」
母親のまなじりがつり上がり始めたので、透は慌ててダイニングに行き朝食をかき込んだ。その間、父親も妹も、透の体が透明になっていることにいっさい触れなかった。
こんな透明な体で学校に行っても大丈夫なのだろうか。それよりは休んだ方がいいのではないか。透はそう思ったが、母親がそれを許すはずもなく、追い出されるようにして駅に向かった。
母親がおかしいだけで、外に出たらびっくりする人が絶対にいる。
そう覚悟していたが、すれ違う人も透を追い抜いていく人も、誰も驚かなかった。電車に揺られている間も、透に視線を向ける人はいなかった。
何故だ。どうして誰も驚かない。
透の体が透明になっているのは間違いない。自分だけではなく、母の目にも透明に見えたのだから。遠くからは、制服だけがそこにあるように見えるだろう。
透の家族が何事にも動じない鋼鉄のような心の持ち主なのかもしれない、と家を出た直後こそ思ったが、どうやらそうではないらしい。
「おーっす、篠原」
「お、いたいた。いつものとこにいないから休みかと思ったぜ」
改札を出たところで、大倉と根本に会った。いつもは三人で同じ車両に乗っているが、何を言われるだろうかという不安があって、ぎりぎりまで友人たちに会いたくなかったのである。だが、そんなものは透の杞憂だったようだ。
「……なあ、おれ、透明だよな?」
「ん? ああ、そうだな。それがどした?」
「朝日が透けてまぶしいぜ」
大倉も根本も、母親と同じく当然という表情である。何故か透明になった上に、誰も不思議に思わないのは決定的である。自分の頭の方がおかしいのではないか、とさえ透は思った。
学校に着いても、誰も透に目を向けなかった。目立ったところがあるわけでもない凡庸な容姿だから、普段から視線を注がれる存在ではない。あまりにもいつも通り。教室についても、授業が始まっても、昨日までと何ら変わりなく進んでいく。
透明人間になったのだから、たとえばべたに女子更衣室に忍び込んでみようか。だが、空気のように目に見えないわけではないからすぐに見つかりそうだ。それに、体は透明になっているが、着ている服は透明ではない。服を脱げば多少目立ちにくくなるが、いくら透明だからといって全裸で歩き回るのには抵抗がある。これでは電車にただ乗りしたり映画館でただ見をする、というこれまたべたなこともできそうにはない。いきなり体が透明になったように、いきなり元に戻るかもしれないのだ。そう考えると、いつも通りにちゃんと服を着ておかなければ。
結局のところ、透明人間になっても透の日常は何も変わらないというわけだ。おかしいと思うのは透だけで、周囲は誰もそう思っていないのだから、特に生活に支障もない。
透明人間になっても何も変わらないのなら、元に戻りたい。戻ったところで見栄えのする容姿ではないのだが、透明になったために目鼻立ちはかなりわかりづらく、表情がよく見えない。病気になったときに顔色が悪いかどうかもわからない。
授業そっちのけでそんなことを考えていた透は、なんだか悲しくなってきた。これでは透明になり損である。どうやったら元に戻れるのかもわからないのだ。
「おれみたいな人、他にいないかな」
その人も透と同じように驚き戸惑っているかもしれない。もしかしたら、元に戻れる手がかりがつかめるかも。
「おれみたいな……って?」
大倉がきょとんとした顔をする。根本にいたっては、弁当を食べるのを優先していた。
「だから、おれみたいに透明人間になった人だよ」
「さあ」
唐揚げをほおばる根本は素っ気なく言う。
「大倉は知らないか」
「さっき見かけたよ」
「さっき!? どこで!」
透は思わず大声になった。昼休みでにぎやかな教室でもその声はひときわ目立ち、はからずも教室中の視線を集めた。が、それも一瞬である。透が気まずそうに周囲を見回すと、大したことではないらしいと皆もとのおしゃべりに戻っていく。
「で、どこで見たんだよ」
「化学実験室から戻ってくる途中だよ。二組の前。女子だった」
「どうしてそのときに教えてくれなかったんだよ」
「そんなこと言われても」
「二組の女子? だれだれ?」
根本がおもしろがるように身を乗り出す。
「あれって確か、堀内だよ」
「堀内? 知らね」
透も二組の堀内なる女子を知らない。
「委員会で一緒だったことがあるけど、下の名前なんだっけ……忘れた」
「篠原、どうする? いまから二組に行って堀内を見てみるか?」
「いや、それはちょっと……」
根本は完全に興味本位という顔だった。透明人間か確かめたいというよりは、堀内という女子生徒の顔を見てみたいという感じである。
委員会で一緒だったことのある大倉だが、特に仲がいいわけでもないらしい。それなのに、いきなり堀内を訪ねに二組へ行くのは勇気がいる。向こうだって驚くだろう。堀内を見に行くかどうかという話はそれ以上発展せず、山崎が昼ご飯も彼女と一緒に食べている、むしろその彼女の顔を見たい、と根本が言い出して、大倉がそれをなだめていた。
●
一日の授業が終わる頃には、誰にも気にとめられなさ過ぎて、透自身も透明なのを気にしなくなりかけていた。
「すみません」
教科書を鞄につっこんでいたら、廊下側から女子に声をかけられた。席替えで廊下側の一番後ろの席になったはいいが、教室の出入り口の近くという配置のために、他クラスの生徒に誰それを呼んでほしい、とか声をかけられることが時々ある。
またか、と思って顔を上げた透は、目を見開いた。
「山田さんにこれ返しておいてほしいんですけど、いいですか」
国語の教科書を差し出されるが、透の目は彼女に釘付けになっていた。きちんと制服を着込んでいるが、それ以外のところは向こう側が透けて見える。
「堀内からって言えばわかりますから」
「……あのさ」
教科書を受け取りながらも、透の視線は堀内から離れなかった。彼女が不思議そうに首を傾げる。
「君も、透明、だよね……」
透が透明なのを誰も気にしないのには、一日で慣れた。だが、同じ透明人間の堀内にまで気にもとめられないと立つ瀬がない。
目や鼻や口の動きはなんとなくわかるが、それぞれの輪郭は見えづらく表情をとらえにくい。それでも、堀内が驚いた顔をしたのはわかった。透は、少しだけほっとした。
「ねえ、少し話、できないかな」
「わたし、用事があるからもう帰らないと……」
「君、電車通学?」
堀内は小さくうなずいた。聞けば乗る方向は透と逆だという。だが、駅までは話ができる。それでいいから、と言ったら、堀内は驚きながらもいいよと答えたので、下駄箱で待ち合わせることになった。急いで残りの荷物を鞄につっこみ、だべっていた大倉と根本に今日は先に帰ると言いおいて教室を出た。
「今朝起きたら、体が透明になってたの。でも両親も誰も驚かないから、驚く自分の方が変なのかなって」
「おれも、同じだよ。当事者だけはそう思わないのかな」
彼女、
「こんなの自分だけだと思ってたから、同じ人がいてなんか嬉しい」
夕陽が彼女の顔をすり抜けている。笑ったのはかろうじてわかったけど、明のはっきりとした顔立ちはわからなかった。同じ境遇だというのに、相手の顔が曖昧なのがもどかしい。
「……おれたち、元に戻れるのかな」
「いきなり透明になったから、元に戻るときもいきなり戻るのかもね」
今日一日だけで、案外明日の朝には戻っているのかもしれない。そうなっているといいねと言い合って、それぞれの電車に乗った。
透の期待に反して、翌朝も体は透明のままだった。透明になった原因が分からない以上、気長に戻るのを待つしかないのかもしれない。だが、意外と悲観的な心持ちにはならなかった。
誰も透明人間なのを気にしない中、自分の身に起きたことに戸惑っている人が他にもいる。明と話しても原因も元に戻る手がかりもつかめなかったが、一人じゃないというのは、それだけで救いになった。
明は二組、透は七組。教室は離れていて見かける機会はなかなかないが、気にして明の姿を探すと、見つけられることもあった。
たとえば化学室などの教室へ移動するとき、二組の前を通る。さりげなく教室に目をやると、明は教室の真ん中あたりにいた。彼女もやはり透明のままで、隣の席の女子と話をしていた。
校庭側の席だったら、二組が体育の授業を受けている様子も見られただろう。あいにく今は廊下側だから無理だが、休み時間になると、明が通りかからないだろうか、と廊下をのぞき込むことが増えた。
透は未だに透明人間のままだ。だが、明だけが先に元に戻ることもあるのかもしれない。それが気になって、彼女の姿を探していた。
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