#17:第4日 (7) 二つの心

 セッションが終わった後、他の部屋に移動する。そこは3時以降のセッションがないため、無人だった。二人きりで話をするのにちょうどいい。

 フェードラと並んで腰かけ、目を見ずに、穏やかに話しかける。彼女はきっと私と目を合わせるのを恐れているだろうから。

「性同一性障害でしょうか?」

「医師の診断上は、そうです。でも僕自身は、もっと複雑なものを感じているんです」

「どうぞお話し下さい。あなたがお一人で悩み続けるより、二人の方がまだしも解決の道を見つけられる可能性がありますから」

「僕は子供の頃から、男性になりたかったんです。兄が3人もいたせいでしょう」

 フェードラは静かに話し始めたが、感情を抑えようとしているのが声の調子で解った。まだもう少し、落ち着く時間が必要だったかもしれない。

「……身体の違いは、もちろん理解していました。男性として育てられたわけはありません。両親も兄たちも、僕を女性として扱ってくれました。けれど、僕は他の女性が興味を持つようなことに、ほとんど興味が持てなかったんです。性格も男性のようだと、周りの皆に言われました。

 僕自身も男性的でありたいと思って、言葉使いも、服装も、仕草も男性的にしました。真似をするまでもなく、自然にそうなったんです。名前も、僕のことを女性だと気付かない人に対しては、テオプラストスという男性名を使いました。本当はもちろんあなたの言ったとおりフェードラです。だから兄たちや妹は僕のことをフィーと呼ぶんです。

 決定的だったのは、思春期です。身体がちっとも女性らしくならない。まるでやせっぽちの少年のようでしょう? それに、好きになるのは女性ばかり。誰もが認める立派な男性に対しては、その人のようになりたいという、尊敬や憧れの気持ちしか湧いてこないんです。

 ところが、彼だけは違っていました。この月曜、財団のブースで彼に話しかけたときです。一目見ただけで、僕は彼に、今まで他の男性に感じたのとは違う、特殊な感情を持ったことに気付いたんです。知らない感情ではありませんでした。僕が、これまで何人か女性に対して抱いたのと同じだったんです……」

 現実世界でも彼女のような症例ケースを知っている。仮想世界ならつい最近、多重人格の競争者コンクルサントと遭遇した。その中の女性人格が、彼に恋愛感情を持った。

 心理学では男性が持つ女性的性質をアニマ、女性が持つ男性的性質をアニムスと呼ぶ。それを一人の中の別人格と見做しても差し支えないはずだ。

 フェードラの意識の中では最初、アニムスが支配的であった。それがあるきっかけ――“彼”の目の力――により休眠していた女性的性質が露見した。それだけのこととも言えるのではないか?

 もっともフェードラは仮想世界の中のシナリオ上の配役であり、こんな精神分析をする必要はないかもしれない。

「一人になると、彼のことばかり考えてしまうんです。その夜は眠れませんでした。彼のことを考えているうちに、彼から女性として見られたいと思うようになりました。生まれて初めてなんです!

 それはすぐに実行に移しました。妹に服を借りて、長い髪のウィッグをかぶって、朝のビーチに立ったんです。彼がその時間にランニングをすることは、前日、泊まっているホテルの窓から見ました。昨日は恥ずかしくて、目も合わせられませんでした。でも今日は彼の方を見たんです。目を合わせたときに、僕を女性として見てくれたのが解って、すごく嬉しかったんです!

 ただ、その姿で話しかける勇気はまだありません。僕に対する彼の見方が変わってしまうのが、怖いんです。今日は彼がツアーに行っていて会えませんから、この先どうするかを考えていました。でもどうせ結論は出せず、男性の姿のまま彼に接するしかないと思っていたんです。そうしたらあなたに看破されて……」

「よく話して下さいました、キリエ・テオプラストス。いいえ、二人きりでいるときはゼスピニザ・フェードラとお呼びしましょう。あなたのお気持ちはよく解りますわ。私にはステラという妹がいて、彼女もあなたと同じように、男性になりたいと言って、20歳を過ぎるまで男装をしていたのです。ところがやはりあなた同様に、ある男性がきっかけで恋愛に目覚めて……」

「そんなことが……ああ、だから僕のことに気付いたんですか?」

「そうなのです。妹とその男性が男女としてお付き合いを始めるには長い時間がかかりましたが、その間、私は妹の相談相手を務めました。ですからあなたにも何かお手伝いができると思うのです。あなたさえよろしければ……」

「でも、つい先日会ったばかりのあなたに、そんなご迷惑をおかけするには……」

「そんなに遠慮なさらないで下さい。とはいえ、私にも時間がありませんから、週末までにできることは限られているかもしれません」

「週末までに……そうです、彼も週末には帰ってしまうので、僕も焦っていたんです。いったい何をすれば……」

「まず、ビーチの件を考えましょう。彼はきっと、女性の姿のあなたを、妹さんと勘違いしているに違いありません。それでも女性として見て下さっているのですから、そこからきっかけを掴むことにしては?」

「そうですね、やはりそれがいいかもしれない……」

「その他の時間は、今の接し方を変えるべきではないと思いますわ。今日も、どうしてもお会いしたいのなら、空港で出迎えて、少しだけでも議論のお時間をいただくことにしては?」

「そうします。ああ! 断っておきますが、僕はそんなに多くを望むつもりはないんです。ただせめて、彼に優しく抱きしめてもらって、『君と会えてよかった』とでも囁いてもらえれば、それだけで……」

 フェードラは悩ましげなため息をつき、軽く身を悶えさせた。全く意識していないだろうが、女性らしい仕草だ。私はなぜ、彼女と“彼”の仲を取り持とうとしているのだろう。“彼”から彼女を奪うことなど、簡単にできるのに。



 小一時間ほどしたら、ソクラテスが現れた。「どうも、長い間ほったらかしにしてしまって」とそこらの連中に声をかけている。ここまでの経過を俺から話し、後のは彼に任せることにした。

「フェリーは?」

「もちろん、船着き場に戻ってきている。余計な連中は追い返した。プラトンは私の船に戻した。明日のツアーに彼は同行する予定だったが、どうするか考え直す」

 ソクラテスは少しばかり機嫌が悪かった。しかし、他の連中と接するときはそれなりににこやかだったから、俺が相手なら多少愚痴をこぼしてもいいと思ったのに違いない。つまり、俺はある程度の信用を博したわけで、彼から情報が得られそうな気がしてきた。

 そこらにある遺跡を全部見終えて、何もすることがなくなった頃に、我が妻メグご一行パーティーが山から下りてきた。彼らはまだ遺跡を見る楽しみがある。ソクラテスが向こうへ行って、我が妻メグにねぎらいの言葉をかけているようだ。

 昨日まではそういうソクラテスの態度が気になっていたが、我が妻メグを情報収集に使うと決めたので、なるべく気にかけないことにする。ただし、あまりにも距離が近付きすぎたら、割って入るかもしれない。

 先に遺跡を見終えた連中が、船に戻っていいかと訊いてきた。なぜ俺に訊く。それくらい自分で考えて行動しろよ。どうぞご自由にと言ってやったら、順次、船の方へ歩いて行った。お前らも山に登ればよかったんだ。そうしたら暇を持て余さないで済んだのに。

 しかしそういう連中から手が離れたので、まだ見ていない、北の方の遺跡へ行く。少しでもヒントを探さないといけない。南の方は住居跡だったが、こちらは神殿跡がたくさんある。アポロンの神殿、アルテミスの神殿、イタリア人のアゴラ、ライオンのテラスなどを駆け足で回る。

 そのうちに、5時になったので、船に戻った。我が妻メグに「疲れたかい」と言葉をかけてやると「とても楽しかったわ!」と喜んでいる。ツアー・アテンダントという新しい職を得た、と考えているかもしれない。

 出航して30分でミコノス島へ。バスに乗り換えて空港へ。搭乗手続きが終わったら、ソクラテスは「船に戻らないといけないので」と言って去った。つまり、実質ここで解散だな。埋め合わせの連絡はいつもらえるのやら。


 イラクリオン空港に着いたのは6時半。なぜかテオが待っていた。ソクラテスに頼まれたのか? 違うのか。俺のことを待っていた? なぜだ。

「少しでも議論の時間をいただこうと思って」

 期待のこもった笑顔で言う。タクシーでホテルまで行く間だけでも、ということか。熱心だな。でも、30分もないぜ。

「いいんです、それでも。ツアーはどうでしたか。ミコノス島より、デロス島の方が面白かったのでは」

 タクシー乗り場に向かいつつ、テオが訊いてきた。我が妻メグを差し置いて、俺の横に並ぼうとしながら。

「遺跡は興味深かったが、君の兄貴たちが二人とも途中でいなくなって、ちょっと大変だったぜ。俺と我が妻マイ・ワイフの二人で他の客の世話をしないといけなくなって」

「そうだったんですか。それはご迷惑をおかけしました」

「アステールという名前に聞き憶えは?」

 テオがちょっと困った顔をする。しかし議論の相手をしてやるんだから、これくらいは答えて欲しい。

「プラトンの友人です」

「デロス島に来ていたんだ」

「まさか!」

「友人にしては年が離れすぎているな」

「正確には、その……友人の息子です。でも、素行のよくない少年でして」

 素行がよくないのは間違いないが、友人の息子ではないだろう。もっと直接的な関係のはず。しかし、ここでは敢えて聞かないでおく。

「ミスター・プラトンと話し合いをすると言って、フェリーに閉じこもってしまった。後からミスター・ソクラテスが来て、追い払ってくれたようだがね。しかし、ミスター・プラトンはクロニスの船に戻ったらしくて、その後は姿を見せなかった」

「身内の恥をさらしますが、プラトンはその少年に弱みを握られてるんですよ。でも、これ以上は訊かないで下さい」

「ああ、もちろん、そのつもりはない。ミスター・ソクラテスも、埋め合わせに何かしてくれると言っていたし」

「きっとあなた方を船に招待するつもりでしょう。社員以外は、大事なお客しか乗せないんです」

 ふん、それがきっとフラグなんだな。船に乗れば、ターゲットのヒントがあると。そのために、クロニス兄弟ブラザースと何らかの関係を築く必要があったわけだ。

 タクシーに乗った後は、議論。そろそろまとまりかけてきたが、完成させるにはあと1回は必要だろうな。それはいつか。明日の朝か。それとも?

「明日は一日、別用があって、会議にも出られないんです。明後日の……朝はお邪魔でしょうから、会議中か、終わった後で、1時間だけでもいただけますか?」

「考えておく。ただ、ミズ・エレンスカからも時間が欲しいとたびたび言われてるんで、調整が必要でね」

「彼女が……そうですか。とにかく明後日の朝、会場でお答えをいただければ」

 ホテルに着き、テオだけが乗るタクシーを見送った。さて、ディナーだ。

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