#13:第8日 (2) 別れの挨拶 (2)

 ロビーに入るとモトローナが近寄ってきた。「10時と16時の便があります」と言う。10時しかないな。50分で到着して、遺跡までは車で50分? ギリギリじゃないか。チケットの手配を頼んで、部屋へ戻る。

 ユーリヤが一緒にエレヴェーターに乗る。腕を組んで壁にもたれ、上目遣いに俺を見る。何だよ、その意味ありげな視線は。一昨日の夜みたいに俺を誘惑するつもりか。そんなことしたら、昨夜は誰といたのか質問してやるぞ。

「ちょっとあたしの部屋に寄ってほしいんだけど」

 エレヴェーターのドアが開いたらそんなことを言った。ますます怪しい雰囲気。

「後が詰まってて長居はできないけど」

「そんなに時間はかからないわ、10分くらい」

 朝の10分は貴重だぞ。でも、仕方ないか。

 3階のスタンダード・ルーム。以前と同じく、ベッドの乱れたシーツやその上に脱ぎ散らかした下着が丸見えで。どうしてこんな部屋に男を呼ぶよ。でも、ここで何かあったようには見えないな。

 どこかに座る? 立ったまま話するのか。

「シモナと同じこと言っちゃうけど、私もあなたとのトレーニングが、とても楽しかったわ。それに、素敵なプリティーアンガー・マネジメントまで教えてもらって、とても感謝してるの」

 素敵なプリティー、って本気でそう思ってる? まだゲームとかでまともに試したこともないんだろ。呪文スペルが気に入っただけじゃないのか。

「礼を言われるほどのことでもないよ」

「言いたいんだから言わせてよ。それに、あなたの身体も楽しませてもらったし、本当に充実した1週間だったわ」

 身体を楽しんだのは一晩だけだろうが。いや、俺のトレーニング姿をずっと眺めてたことを言ってる? それは君が勝手に楽しんだんだ。

「それは結構だった」

「それで、またシモナと同じこと言っちゃうけど、あなたにもう一度会いたいわ。8月の終わりにUSオープンがあるの。ニュー・ヨークだけど。その時、フロリダまで会いに行ってもいいかしら?」

 そんな日はこの仮想世界の中では来ないけど、断ることもないか。

「もちろん、いいとも」

「それと、今年からオフ・シーズンはフロリダで過ごそうと思って。12月でも海で泳げるんでしょう? トレーニングにはちょうどいいわ」

 これも別に拒むことじゃないか。そういや、オフ・シーズンにモナコへ呼びつけようとしたF1ドライヴァーもいたな。

「そうだな、とてもいいだろう」

「あなたも付き合ってくれるわよね?」

「時間が合うならね」

「それと……最後にもう一つだけお願い」

 ああ、その物欲しそうな目。また何かすごいこと要求されそうな気が。

「できることなら何でもするよ」

「……強くハグして欲しいの。一昨日の夜みたいに」

 そんなことしたっけ? いや、強くしてきたのは君の方だと思うけどなあ。でも、拒否する理由もないか。抱き寄せて、背中に両腕を絡めてハグする。

「何か耳元で囁いた方がいい?」

「いいえ、何も要らないわ……ああ、この身体よ、“アスリートの筋肉が好き”」

 たぶん、その呪文スペルを呟くたびに、俺のことを思い出すつもりだろう。ユーリヤも背中に手を絡めてきた。こら、尻を触るな。

 ん、待てよ、“この身体”って? 誰かと比較してるのか。やっぱり昨夜も何かあったな? そいつでは満足できなかったのか。敢えて訊かない方がいいかも。

「俺よりも筋肉を鍛えてるアスリートは周りにたくさんいるんじゃないのか」

「いるけど、あなたのバランスと動きが特にいいのよ。理由は判らないけど」

「じゃあ、今度知り合いのQBクォーターバックを紹介するよ」

「その男に私を押し付けて、自分は別の恋人と会うつもり?」

「君に振られたときの予防線を張ってるんだよ」

「そうはならないわ、この呪文スペルがある限り」

 何言ってんだ。それは君自身を束縛するためのものじゃないんだっての。ようやくハグ終了の合図が出た。

近いうちにねシー・ユー・スーン

 最後にキスまでねだられた。何がもう一つだけワン・モア・シングだ。

 すぐに自分の部屋へ戻り、シャワーをしっかり浴びて着替える。エステルたちに会うにはもう少し時間があるので、ターゲットのことを考えなければならない。

 少し広めの地図を見て、セヴァストポリの位置を再確認する。黒海は台形の上辺からダイアモンド型のクリミア半島がぶら下がった形をしている。オデッサは台形の左上隅、セヴァストポリは半島の南端の少し西寄りだ。車で行くと350マイル。7時間はかかるだろう。もう8時前。あと4時間ほどしかないので、車では間に合わない。

 飛行機の時間は10時。セヴァストポリの空港に着いてから、車で遺跡へ行かなければならない。だが、俺は車が運転できない。タクシーを使う? 予約しておくか。コンシエルジュに頼めば何とかしてくれるだろう。

 しかし、一番の問題は、10時にイリーナと会う約束があることだ! 色々手伝ってくれたのに、最後に裏切るなんてことはしたくない。さあ、どうする。

 むむ、そうだ、セヴァストポリへ行こうと誘うのはどうだ? 一緒に行けば、車も運転してもらえる。たった2時間のデートだが、最後にハグすることくらいはできるだろう。

 問題はターゲットの美人ビューティーが一緒にいた場合だが、会う方法すら解らないし、30分後にはエステルたちとの約束がある!

 美人ビューティーのことはひとまずラーレに訊いてみようか。昨夜のうちに捉まえておけばよかったなあ。マリヤにメッセージを入れることしかできなかったから。

 しかし、フロントレセプション経由でラーレの部屋へ電話してみたが、出なかった。もう出掛けたようだ。これはターゲットを諦めるしかないのか。

 あるいはマリヤたちから情報を聞けるかもという、一縷の望みはある? とりあえず先にイリーナに電話だ。

「やあ、イリーナ、今日のデートのことだけど」

「あら! わざわざ電話を下さったんですか? ありがとうございます! ええ、もちろん、楽しみにしてます」

 ほんと、楽しそうな声。笑顔が目に浮かぶ。いい感じの肉付きの手足も。

「セヴァストポリへ遺跡を見に行こうと思うんだが、どうだろう」

「セヴァストポリというと、ケルソネソスですか? ええ、もちろん! 一度だけ行ったことがあるんですけど、もう一度行きたいと思ってたんです」

「よかった。じゃあ、9時45分に空港のチェック・イン・カウンターの前に来てくれ」

「あら、ホテルまでお迎えに行かなくてよろしいんですか?」

「ちょっと出掛けるところがあって、そこから直接空港へ行くんだ」

 デートの掛け持ちをしてるところなんて見られたら困るから。

 さて、市内から空港へは? タクシーで飛ばして10分か。いや、単車モトで行く手もあるな。何とかなりそうだ。

 荷物をまとめ、鞄だけ持って行って、スーツ・ケースは後でロジスティック・センターへ送ってもらうように頼むことにしよう。

 またモトローナに電話して、チケットの追加とセヴァストポリのレンタカーの手配を頼む。そしてチェック・アウトの前にコニーの部屋へ。

 ドアにノックすると、コニーが“服を着ずに”姿を見せた。ちゃんと立てるじゃないか。いや、脚がふらついてるか。大袈裟な。大急ぎで部屋に入る。

「やあ、朝食はまだなのか」

「これが朝食代わり」

 言いながら、いきなりキスしてきた。そんなもので腹が膨れるか! そういや、俺も朝食がまだだった。ただし、この後で食べられると思っている。

「ユーリヤの匂いがするわ。彼女ともキスしたの?」

 そんなはずないだろ。ちゃんとシャワーを浴びて、ボディー・ソープで顔も身体も洗ったんだぜ。

「朝、また一緒に走ったからじゃないか。ああ、その後で、別れの挨拶にビズをした」

「あら、そう、別に構わないけど」

 じゃあ、訊くなよ。意外に嫉妬深いのか?

「君と二度もデートができて楽しかったよ。じゃあ、元気でテイク・ケア

「フロリダへ行ったらまたデートしてくれるんでしょう?」

 何のことを言ってるんだ。君もフロリダに来ようとしてる? でも、今日でこの世界は終わりなんだって。

「もちろん、来れば会うよ」

「ブランドと専属契約を進めてるって言ったでしょう? 合衆国のブランドなのよ」

 それはフロリダを拠点としてるのか。そんなことないよな。どうせニュー・ヨークかロス・アンジェルスだろ。

「合衆国のブランドの契約金は高いんだろうな。NFLのトップ・クラスのプレイヤーよりも上だと聞いたことがあるよ」

「あなたと会うときの服は時間をかけて選んで、自分のお金で買うから、安心して」

「そして一度きりしか着ないのか」

「もちろん。ああ、でも、あなたと結婚したら別よ。毎日新しい服を着るのは、いくら何でも贅沢だわ」

「君だと判らないような質素な服を着ることを勧めるよ」

「それって結婚の承諾かしら?」

 さすが強欲な女。もう俺を手に入れたつもりでいる。

「次に会うときまでに返事を考えておく。じゃあ、元気でテイク・ケア

近いうちにねシー・ユー・スーン

 ユーリヤと同じ言葉を言って、同じようにキスをねだってきた。全く、このステージのキー・パーソンと来たら。

 よし、チェック・アウトだ。部屋を出て、ロビーに降りる。フロントレセプションにはモトローナ。君にも世話になったなあ。メッセージをたくさん取り次いでもらって。

 マリヤからメッセージ? 「階段の上でお待ちしています」。なるほど、エステルと会った場所だからだろうな。

「それと、先ほどからお客様がお待ちです」

 最後の最後にまたそれか。誰?

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