#13:第6日 (9) ハート・マーク

 コーヒー・ブレイクの後はオデッサ駅へ。外から眺めるだけのつもりだったが、ケイティーが中を見たいと言う。“壁”がないことを祈りながら駅舎に入る。“壁”はなかった。やっぱり誰かと同伴なら入れるのか。

 プラットフォームへ出ると、古い型の電気機関車や客車が停まっていた。ジョージアの鉄道とさほど変わらない古さらしい。

 次にクリコボ広場。この前見たとおりで、労働組合本部はすすけていて、ケイティーもさほど喜んでいない。

 この後、戦勝記念公園へ行くと少し遠くて時間がなくなりそうなので、シェフチェンコ公園へ行く。南側から入っていくと、ケイティーが「あっ!」と声を上げる。

「どうした?」

「遊園地が……」

 単車モトを停める。遊園地を喜ぶのか! いや、いかにも少女らしくていいんだけど、そういうのってもっと低年齢なのでは。

「乗り物には乗らなくてもいいので、中を少し見て回ってもいいですか?」

 断る理由はないので、どうぞご自由にと言うしかない。観覧車フェリス・ホイール回転木馬カルーセル回転ブランコスウィング・ライド。ローラー・コースターもあるが、もちろん子供向けでスピードは出ない。ティー・カップにオクトパス。夏限定かもしれないが、子供用プールもある。

 喜びはしゃぐ子供を見ているせいか、ケイティーも笑顔になっている。本当に乗らなくていいのかと訊きたいところだが、もし一緒に乗ることになったらこっちが様にならないのでやめておく。

 遊園地の乗り物を“見る”ことを堪能してから、シェフチェンコ公園の中を進み、無名水兵の記念碑へ。やはりここからの黒海の眺めは見せておいた方がいいだろう。今日は少し風があって、ケイティーが帽子を押さえながら海を見る。

「階段のところからよりも、ずっと綺麗ですね」

 穏やかな笑顔なので、もはやこの服装でも美少女にしか見えない。そして広い場所にもかかわらず、俺にぴったりとくっついてくる。ちょっと馴れすぎだと思う。

「どんなところにお住まいなのですか?」

 おまけに俺に興味まで持ってるし。

「裕福な町の中の、少し寂れたダウンタウンにある、安い共同住宅テネメントだ」

「一流の研究者なのに?」

「狭いところの方が落ち着くんだよ。なんでも手が届くところにある方が便利だ」

「私の家も、とても狭いんです」

 そういう身の上話をするときは、少し暗い顔になってもいいと思うのだが、ケイティーは穏やかな笑顔のままだった。

「私が一流の踊り子になれたら、家族が喜ぶと思うんです」

 おやおや、神のためにバレエをしてたんじゃなかったのかな。それとも、一番が神のため、二番が家族ためか。俺の知り合いでも、一番大切なのが神への感謝、二番目が家族、三番目がフットボールと言っていた奴がいたが。

「もし俺が君の家族なら、一番喜ばしいのは君の笑顔を見ることだよ」

 俺を見上げていたケイティーの顔が、怪訝な表情になった後で、ほんのりと赤くなっていった。いや待て、誤解を招く言い方をした。家族というのは、君の父親や兄だったらという意味だ。

「あ……ありがとうございます。私は、笑顔と感謝の気持ちを忘れていたかもしれません。神に私を見ていただくこと、神にバレエの美を認めてもらうことで、頭がいっぱいでした。それよりも、バレエを踊る喜びを表さなければいけなかったと思うんです」

「そうだな。君は誰かの期待に応えようとして踊っていた。しかしその誰かとは、神でも家族でもなく、君自身が作り上げた虚像だった。君はどこにも存在しない義務のために踊っていた。しかし、これからの君は違うだろう」

「ええ。でも、また最初からやり直しです。私はプリマ・ドンナの座を失ってしまいました。今のバレエ団にも、もういられないかもしれません」

「そんなことはない。君は何も失っていない。それどころか君はプリマ・ドンナの座を掴んだままだ。俺が保証するアイ・ギャランティー・イット

「ありがとうございます。お優しいんですね」

 どうやら俺が慰めのために言ったと勘違いしているようだが、裏工作は得意なんだ。しかもここは仮想世界だしな。

 さて、もうそろそろケイティーを解放しなければならない。単車モトの後ろに乗せて劇場へ送り届ける。ケイティーのしがみつき方がさっきまでより格段に強い。顔をすり付けられている気がする。

 劇場の前でお別れかと思ったら、ケイティーが今までにない真剣な表情で言った。

「あの、一つお願いがあります」

「何でもどうぞ」

「着替えを手伝って下さい」

 いや、何でもどうぞと言ったのは間違いだった。そういうのは俺が手伝うんじゃないんじゃないか?

「失礼しました、着替えの後に、手伝って欲しいことがあるんです」

 それなら話は解る。しかし、女子更衣室の前で待つというのは非常に落ち着かないものがある。一歩間違えばただの覗きに思われてしまう。

 しばらく待っていると、ケイティーがレオタード姿になって、ドアから顔を覗かせた。

「あの、入って下さい」

 だから、どうして俺が女子更衣室に入らなきゃならないんだって! 財団の権限でも入れないはずだろ。

「私の、とても仲のいい友達しか知らないことなんです。他の人には頼めないんです」

 それがどうして俺に頼めるのか。で、何をしろって?

「このシールを、背中に貼って下さい。痣か隠れるように……」

 痣? ケイティーが背中を向けると、右の肩甲骨の真ん中辺りに、親指の大きさくらいの、可愛らしいハート型の痣があった。シールはケイティーの肌の色と全く同じで、なるほどこれを貼れば痣は隠せそうだが。

「可愛いから出しておいてもいいんじゃないのか」

「他の子に知られると、見せてって言われるから嫌なんです。見るだけならいいですけど、つねったり引っ掻いたりする意地悪な子もいるんです。だからいつも隠してるんです」

 はあ、そういうこともあるのかな。変にこすったりしたら形が変わることもあるし、隠しておくのが無難なのかもしれない。

 んん、隠す? そういえば、右足首を隠してるガキブラットや、左手首を隠してるアスリートがいたんじゃなかったっけ。とりあえず、恋人であればキスをしたくなるほど可愛らしいハート・マークだが、シールを貼って隠す。

「ありがとうございます。朝はちゃんと着けてたんですけど、服を買いに行ったときに、お店の人にうっかり剥がされてしまったんです」

 この程度で、どうしてそんな嬉しそうな顔をする。それはともかく、更衣室を出る。誰かに見られたら無用な誤解を招くところだった。

「あの、今日は、本当にありがとうございました」

 すっかり無表情ではなくなった。満面、というわけではないが、少女と大人の中間の、落ち着いた笑顔だった。

「どうしたしまして。この後の練習も頑張ってくれ」

「はい、あの……いえ、何でもありません」

 ケイティーは振り返るとリハーサル室の方へ駆けていった。最後に何か言いたそうにしていたが、まあ、何となく解るけれども、敢えて聞くまい。


 研究所には5時20分頃に着いた。俺は単に見に来ただけだから、遅れたって構わない。IDカードを見せてセキュリティー・タグをもらい、体育館へ行く。だだっ広い中に、少女が二人と大人7、8人がいる。

「あっ、アーティー!」

 シモナが俺を目ざとく見つけて走ってきた。計測の途中じゃないのか。俺の目の前に来て見上げているが、いつもの笑顔はなく、神妙な顔つきをしている。

「やあ、シモナ」

「ドクター・アーティー・ナイト、今朝のあたしはとても身勝手でした。あたし自身が怪我をするだけでなく、あなたに迷惑が掛かるようなことをしてしまいました。これからは指導してくれる人の言うことをよく聞き、勝手な行動を慎むことを誓います!」

 あらかじめ作って憶えてきたような反省の言葉だが、それはそれでいい態度であることを評価しなければならない。ちゃんと反省したという証明だからな。

「いい心掛けだ。だが、人の言うことを聞いているだけではダメだぞ。何か忘れてはいけないことがあるはずだな。何だ?」

「んんー?」

 シモナは首を捻りながら考えていたが。ぱっと明るい笑顔になって叫んだ。

羨望エンヴィー!」

「そうだ。それが君の向上心の基なんだからな」

「イエッサー!」

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