#11:第4日 (3) 朝の歌
とりあえず、しばらく黙って、それからまたカーリに話しかける。
「君はあの二人と仲がいいのか?」
「そうですね……私が消極的なので、いつも彼女たちの方から話しかけてきてくれます」
そういえば昨夜の会話にカーリは全く参加しなかったな。あの二人が俺ばかりに話しかけていたせいだろうが。
「山に誘ってくれたのも彼女たちか?」
「はい」
「昨日まではどこにいたんだ」
「スピテルストゥレンです」
「そこも1泊だけ?」
「いえ、2泊して、ガルフピッゲンに登ってきました」
「ああ、ノルウェー最高峰の」
「はい」
「ここへは何をしに?」
「湖を見たくて。この湖もそうですが、ここへ来る途中にもいくつかあったので」
「ここでも、もう1泊くらいすればいいのに」
「でも、金曜日にベルゲンで友人と会う約束があるので」
「ボーイ・フレンド?」
「ひうっ……違います! そうじゃありません! ……あっ、すいません、大きな声を出してしまって……」
やっぱり男が怖いのか。しかし、そういう女でも、この仮想世界だと俺に対しては特別な対応をするんだよなあ。
「ああ、すまない、個人的なことを訊くつもりはなかったんだ」
そして口を閉じて、またいくばくかの時間を過ごす。しかし、そろそろ間が保たなくなってきた。
「俺はそろそろ山小屋に戻ろうと思うが」
「あ、はい……」
「約束の時間より少し早いが、レストランでコーヒーでも飲みながら話をしないか」
「あの、あなたと、二人で……ですか?」
おかしいな、さっきよりも近くから声が聞こえる。
「そう」
「ニーナとヘイディに怒られてしまいます……」
「どうして?」
「彼女たちも、あなたとお話をしたがっていますから……」
何という控えめな態度。独占欲がないのか。この世界の女じゃないかのようだ。
「しかし、彼女たちがいたら、君と話ができない」
「でも、何をお話ししたらいいのか……」
「グリーグとヴェルゲランの本のことを少し話してくれないか」
「あっ……それなら、はい……」
ようやく承諾した。扱いにくいなあ。「じゃあ、行こうか」と声をかけて、振り返って歩き出す。後ろから控えめな足音が付いてくるが、聞き落としそうなほど小さい。背が高いんだから、それなりの音がするはずなんだが、忍び歩きをする癖でも付いてるのだろうか。
山小屋に戻り、レストランに入る。6時に開いたばかりで、客は誰もいない。コーヒーを二つ頼んで、昨夜エリンに案内された、隅の一番いい席を占める。もちろん、昨夜俺が座った席にカーリを座らせる。それでも俺の方を見るかどうか。
ところで、どうして彼女はこんな時間なのにちゃんと化粧をしてるんだろうか。いつ何時誰に見られるか判らないからという用心からか。
「あの……本を取ってきましょうか?」
意外にも彼女の方から口を開いた。
「いや、君が憶えている限りでいいよ。両方とも読んだのか?」
「いえ、ヴェルゲランの詩集の途中までしか……」
「どういう詩が収録されてるんだ?」
「あの……それは、本を見ながらでないと、説明が……」
確かにそうなのだが、何でもいいから思い出してくれと頼む。青春を題材にした詩が多くて、理想的な女性像を褒め称えるものが印象に残っていると言う。
「旅を題材にした詩はあった?」
「旅、ですか。私が読んだ範囲にはなかったと思いますが……」
そうすると、自分で全部読めということなのだろうか。しかし、“ヒントを解読するためのヒント”があるはず、という気もする。このままカーリと話していたら何か思い出してくれるのかな。
「グリーグの伝記はまだ読んでないんだったな」
「はい。ですが、この後で読む時間はもうなさそうなので、返そうと思ってます。あの……英訳版を、もう一度探しますか?」
さて、どうしたものかな。探すのに時間を使うより、カーリとこのまま話す方がいいんじゃないかと思うが。
「いや、いいよ。俺も読む時間がなさそうだし」
「そうですか」
「ところで、君は本を読むのが好きなのか」
「いえ、そうでもありませんが……」
あれ、そうなのか?
「じゃあ、何が趣味なんだ?」
「音楽を聴くことです」
「クラシック音楽?」
「いえ、ポピュラー音楽です」
意外。しかし、最初がチェスで、次が文学だったんだから、今回は音楽だとしても驚くには当たらないよな。むしろ、詩よりも有望かもしれない。
「ノルウェーの?」
「いいえ、ヨーロッパの色々な音楽です」
「じゃあ、ここでは暇な時間に本を読むんじゃなくて音楽を聴いていればよかったのに」
「それが、昨日のスピテルストゥレンで
リュックサックのサイド・ポケットに入れていたのだが、底が破れているのに気付かなくて、山カードと一緒になくしてしまったらしい。しかし、音楽の話をし始めてからカーリの表情が少し明るくなった。しかも、俺から視線を外すこともなくなった。ようやく慣れてきたかな。
ユーロヴィジョンという音楽コンテストがあって、去年はベルゲンのグリーグ・ホールで決勝大会が開催されたのを見に行って、などと話している間に、ニーナとヘイディが来た。もう6時半か。
「あら、あなたたち早起きなのね。ずっと二人で話してたの?」
「いや、10分ほど前に来たんだよ。まだコーヒーしか頼んでない」
「じゃあ、一緒に朝食を摂りましょうよ」
「もちろん」
トースト、ハム、ソーセージ、スクランブルド・エッグのプレートを注文した。ニーナがずっと話しかけてくるので、カーリが口を開かなくなった。ヘイディは相変わらず2割。窓の外の、山の向こう側が明るくなってきた。
「後で外に夜明けを見に行きましょうよ」
「ああ、そうしよう」
山に来ると夜明けが見たくなるものなのだろうか。しかし、夜明けは7時51分のはずで、まだあと1時間近くもある。山があるから太陽が見えるのはそれより数分遅れるだろう。レストランが混雑してきた。そろそろ出た方がよさそうだが。
「じゃあ、7時半頃までどこかで休憩して、その後で外に……」
言っているうちに、音楽が流れ始めた。7時になったから? 夕方だけじゃなくて、朝も流れるのか。
「昨日の曲とは違うんだな」
「ええ、そうね」
そして昨日とは違って、誰も立ち上がって唄ったりしない。いや、座ったまま小さい声で唄っているのは何人かいるようだが。
「今日は木曜日なので……」
カーリが小さい声で呟いた。
「どういうこと?」
「あ、その……」
しゃべったのを咎められたとでも思ったか、カーリがおどおどしている。これでは昨日までの彼女に逆戻りだ。「説明してくれ」と重ねてお願いする。
「今のは『羊飼い娘』という曲です。昨日の『ヘンリク・ヴェルゲラン』とともにグリーグの声楽曲集『
何となく、ヒントになっていそうな気がする。それはそうと、土曜日と日曜日には何の曲を流すんだろう。
「ノルウェー人は愛国的だな」
「あら、合衆国だって、事あるごとに国歌を演奏したり唄ったりしてるじゃないの」
ニーナが口を挟んできた。事あるごとじゃない、ゲームごとだ。フィールドで直立して、胸に手を当てているが、ごくたまに別のことを考えている場合もある。
談話室へは行かず、外へ夜明けを見に行くことになったが、ニーナとヘイディが部屋から防寒着を取ってくるまで、山小屋のエントランスの辺りでカーリと待つ。その間に、声楽曲集『ノルウェー』の他の3曲を教えてもらう。
第1曲『帰郷』、第2曲『ノルウェーに』、第5曲『移民』だそうだ。声楽曲だから、歌詞を調べた方がいいかもしれない。
ニーナとヘイディが戻って来て、両脇を挟まれながら湖へと歩く。カーリはやはり後から付いてくる。
湖の際には、既に先客がたくさんいる。折りたたみのテーブルを置いて、コーヒーを飲んでいる連中もいる。ウルルのサンライズ・ツアーのようだが、それほどの景色ではないと思う。しかも東の空は曇っている。
7時半頃になると人が増えた。山小屋の窓からも見ているようだ。8時前なんていう遅い時間が日の出だから、他にすることがなくて見てるのだろう。
8時になって、東の空はオレンジに染まったが、雲に隠れて太陽は結局見えなかった。一番雲が赤い、あの辺りにあるのだろうな、と思うだけだ。集まっていた人々も順次山小屋に戻っていく。
「さて、君たちはこの後は?」
「この湖を一周してこようと思ってるの。1時間くらいかかるはずだけど、バスの時間には間に合うと思うわ。あなたもどう?」
予想どおり誘われたが、別のところへ行くと言って断った。1時間ほど山小屋で過ごしてから、キルキャ山に登るということにしておく。
ニーナたちはすぐに出発した。エマたちとは違って、しつこくなくて助かる。しかし、カーリまで行ってしまったのはよろしくない。彼女が一番頼りになると思ってたんだが。
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