ステージ#11:第3日

#11:第3日 (1) 夜の訪問者

「もう日付が変わったよ。30分後に、自分の部屋に戻ってくれるかい?」

「もちろん、そうすると約束するわ」

 そう言ってアストリッドは俺にワイン・ボトルを持つように促した。それを持って、俺の部屋へ移動する。アストリッドは後ろからグラスと本を持って付いてくる。

 部屋へ招き入れ、俺が使わない方のベッドに座るよう勧める。書き物机の椅子を持ってきてテーブル代わりにし、ワインのボトルとグラスを置く。

 アストリッドは膝をそろえて座り、その膝の上に両肘を置き、両手で頬杖をついている。ゲームの時と違って、キャミソールの上にパーカーフーディーを着ているが、丈が長くて腿の辺りまで隠している。下を穿いているかどうかは判らない。

「君は小説や戯曲を読むのが趣味なのか?」

「趣味というほどじゃなくて、人並みね。イプセンは教養として読んだだけよ」

「俺は合衆国の名作文学さえ読んだことがないよ」

「なら、どうしてあの2作のあらすじを知ってるの?」

「教養として読んだんだよ。名作文学のあらすじを紹介した本をね」

あらアイ!」

 アストリッドが顔を上げて座り直した。人妻なのにどうしてそんな純情そうな表情をするんだろう。

「それは、会話のトピックエムネにするため?」

「いや、何かで話題に出たときに、知らないって言うのが悔しいからさ」

あらアイ!」

 アストリッドが目を細めて微笑む。子供のようだと思われたかもしれない。

「でも、そうして概略を知っておくのはいいことだと思うわ。それをきっかけにして、知識が広がることも多いでしょうし」

「中途半端な知識ってのはおおむね役に立たないものだよ」

「でも、今日は役に立ったみたいね。小説の前提条件を疑うなんて、私、思っても見なかったもの」

「君はイプセンの作品は一通り読んだのか?」

 時間がないので、単刀直入ストレート・フォワードに訊くことにする。

「有名な作品をいくつかだけ。他には『野鴨』『幽霊』『民衆の敵』……」

「残念ながらタイトルも知らないな」

「じゃあ、『ペール・ギュント』は?」

「タイトルは知ってるが、あらすじの本には載っていなかった気がする」

 アストリッドがあらすじを教えてくれた。ペール・ギュントという夢想家の男が、ソルウェイという恋人がありながら、他人と結婚しようとしているイングリを式場から奪って逃げ、しかしイングリに飽きたら捨て、トロルの娘と結婚しそうになるが逃げ出し、ソルウェイと同棲するも勝手に放浪の旅に出て、外国へ行ってペテン師になり、金を儲けては無一文になることを繰り返したあげく、故郷に戻ってくるが、ボタン職人にボタンにされそうになり、最後はソルウェイに子守歌を唄ってもらいながら永遠の眠りにつく。

 うん、よく解らん。何をモチーフにしてるんだろう。というか、ペールが目的があるのないのか解らない状況で各地を放浪するところなんか、今の俺の境遇そのものって気がしないでもない。理由もなく女に好かれたりするところもそうだが。

「ペールは、あなたの数理心理学としてはどういう存在かしら?」

「対象外だな。俺のシミュレイションに登場する人物モデルは、みんな何らかの具体的な意図インテントを持って行動するように調整されているから、無目的な人間はいないんだ」

 この仮想世界での俺の意図は、ターゲットを獲得および確保することだが、その大前提となる「なぜそのようなことをさせるか」、つまり仮想世界をシミュレイトする目的が全く解らない。無事にターゲットを七つ集めて、仮想世界から脱出することができても、その目的はきっと解らないままだろう。

 ただ、このステージでのアストリッドは、俺に対する明確な意図インテントを持っている人物、すなわちキー・パーソンであると考えられるが、どうやって情報を引き出せばいいのかな。まさか……

「イプセンの戯曲の中では、君はどれが一番興味深い?」

「特に深い興味はないわ。イプセンに限らず、他の多くの小説や戯曲も同じ。つまり、教養としてしか興味がないの。仕事に役立つこともないし」

「こうして他の人と話をするときのトピックにしかならない、と」

「そう。でも、今日はあなたのおかげで、新しい発見をしたわ。悲劇的な結末になる小説の中には、前提が既に悲劇的である場合があるって」

「それが世の中を正しく反映していれば、特に問題にはならないだろう」

「ええ、みんながそれが当然であると思っている時代には、問題があることに気付かないかもしれないものね。そういうの、何ていうんだったかしら?」

「パラダイムのことかな」

「そう、それだわ。結婚に関するパラダイムって、イプセンの時代からは大きく変わったわね。男が主、女は従っていうところから、男女同格になり、今は男女の区別さえもなくなって」

 何か、最初の話からだいぶずれてきているような。

「イプセンが今の時代に生きていたら、いくつかの小説は書けなくなっていたわけだ」

「でも、もしかしたら、同性婚についての小説を書いたかもしれないわ」

「そういう小説を、君はやはり教養として読む?」

「ええ、教養として。裁判の参考になるかもしれないし。あなたは? やっぱりあらすじだけを読むのかしら」

「読まないかもな。知り合いのゲイに話を聞く方が面白そうだ」

「私もそう思うわ。レズビアンレスビスクの知り合いは少ないけど」

「俺とこういう話をするのも教養のため?」

「いいえ、あなたの仕事以外にも興味があるから、色々聞いてみたいのよ」

 仕事以外っていうと……フットボールのことかな。現実世界ではそれが本職プロだが。いや、セミプロか。そういうことなら第4クォーターの続きを話したいんだけどなあ。

「例えばどんな」

「あなたの女性観」

「至って古風なものオールド・ファッションドさ」

「男に対して忠実トロファストな女ね」

「君とは対極かもしれないな」

「そうでもないわ。私だってトールに対しては忠実だもの」

「他の男に対しても興味を持つか、そうでないかが違うだけ、かな」

「私は、私の人生をよりよいものにしてくれそうな人、全てに興味があるの。それは男性とは限らないわ」

「精神的なものだけとも限らないんだろうな」

「ええ、もちろん」

「そういう考え方を許容してくれるパートナーを持っているというのは羨ましいよ」

「トールにももっといろんなことに、特の他の女性にも興味を持って欲しいけど、どういうわけか私のことしか見えないらしいの」

「そこだけは俺と似てるかもな」

「いいえ、あなたの方がずっと社交的だと思うわ」

 それを言われるのは2回目だ。仮想世界だから無理をしてるんだけど、そうも見えないのか。

「そろそろ30分経ったかな」

 アストリッドもワインをほぼ飲み終えた。

「あなたの訊きたいことは全部訊けたかしら?」

「いや、まだだな。でも、明日の朝にするよ」

「明日、私とトールは9時頃に出発してメムルブへ向かうけど、あなたはどうするつもり?」

「まだ決めてない」

「またエマとマヤについて行くの?」

 ついて来たわけじゃないけどね。

「それはない」

「どこへ行くか決めきれないのなら、相談に乗るわ」

「それはありがたい」

「じゃあ、私は部屋に戻るわね」

 アストリッドが立ち上がった。ワイン・ボトルとグラスは置いていくつもりらしい。ドアのところまで送っていく。ドアを開けたが、アストリッドは出て行く前に振り返る。お休みの何かを要求するつもりかもしれない。それを避けるために質問する。

「最後に一つ。チェスは君の趣味の一つに入ってるかい?」

「いいえ、駒の動かし方しか知らない。マグヌス・カールセンがチャンピオンになったときに大流行して、私も習ったけど、私には合わないってことが解ってやめたわ。どうしてそんなこと訊くの?」

「君の考え方は論理的で、チェスが得意そうに思えたからさ。お休み、アストリッド」

 アストリッドはそれには返事せずに微笑むと、いきなり俺の首の後ろに両手を回し、ぶら下がるようにして俺の首を引き下げると、無理矢理唇を塞いできた。待て待て待て、この仕打ち、前のステージの最終日にもあったような。

 5秒、10秒、15秒、まだ離れない。これがスウェーデン流スウェディッシュ? 冗談だろ。お休みの挨拶のキスが、こんなに長いわけない。後ろにベッドがあったら、このまま押し倒されてるんじゃないか。

 40秒経ってようやくアストリッドが離れた。後味は白ワインの香りがした。

「あなたはもっと、人をリードする術を学ぶべきだわ、アーティー。お休みなさい」

 挑発的な笑みを残しながら、アストリッドはドアの向こうへと消えた。人をリード、ね。フットボールでも、女を相手にするときでも、俺は確かに受動的だな。一応、自分でも解ってるつもりだが。

 それにしても、明日の行く先については、何もヒントを得ることができなかった。まさか、アストリッドに付いていけばいいというわけではあるまい。だって、今朝いたところへ戻るんだぜ。

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