#10:第5日 (8) 200万ドルの男

 さて、リヴィング・ルームにサブリナ、ホリーと共に取り残されてしまったのだが、何となく気まずいな。サブリナは俺に話しかけたそうにしているが、ホリーに目で止められている。

「いいじゃん、訊いたって。ねえ、アーティー、あなたの年棒が200万ドルって本当なの?」

 200万……そんなに少なかったのか。もしかして、ずっと控えだったが、先発QBの怪我でスーパー・ボウルに代役出場して、勝ったとか? オレンジ・ボウルの時と同じじゃないか。だとしたら、昨シーズンの年俸は大したことないよな。次のシーズンで跳ね上がる。3月だから、まだ契約が終わっていない。5年で2億ドルは無茶な金額ではないだろう。

 もっとも、代役でスーパー・ボウルMVPを獲得したが、次のシーズンにはやはり控えに甘んじたというQBクォーターバックもいないではない。

「契約は代理人エージェントに任せてるから、金額は憶えてないんだ」

「あら、そう。でも、その全額を私たちに払うのよ。それでいいの?」

 君たちにじゃない、イライザに払うんだよ。

「いや、100万ドルは戻ってくるね。必ず無事に着くんだから」

「そうね、そうでないと私たちも困るわ」

「何言ってるの、ブリー! イライザに行ってもらうのが困るのよ!」

「それはそうだけど、決めるのはイライザだもん。そりゃ、あたしも止めるけどぉ」

 サブリナはどっちでもいい、と思っているようだな。これ以上余計なことをサブリナに言わせてはまずいと思ったか、ホリーはサブリナの手を引いて2階へ上がってしまった。入れ替わりに、イライザが戻ってきた。

「紅茶はいかがですか、アーティー?」

 英国風ブリティッシュだな。紅茶ばかりそんなに何杯も飲めないよ。

「200万ドルとはふっかけたな」

「国のことを思うのなら、そう大した金額ではないでしょう」

 ソファーに座りながら、イライザが言った。

「合衆国と中米の小国じゃあ、事情が違うよ」

「そう思うのなら、バーミージャの協力者をお捜しになればよいでしょう。そのための協力なら、もっとお安くしておきます」

「協力者の当てはあるのか」

「いいえ、全く。レディー・ダーニャがお名前を出してくだされば、という意味ですわ」

 ダーニャも当てがないから、俺たちに頼んでるんだろう。それに対して足元を見た、というわけでもないよな。他国内の紛争に首を突っ込みに行くんだから、義勇軍ヴォランティアでも危険を承知の覚悟が必要だ。命の値段として100万ドルはさほど高くない。それどころか、俺の場合は金を払って危険地帯へ行くんだぜ。どんな矛盾だよ。

「でも、本当はそれほど危険とは思ってないのでは?」

「いくら紛争中でも、反乱軍が民間人の飛行機を撃墜するなんて、弱みを作るようなものですわ。でも、“何かの間違い”は想定しませんと」

「確率は100対1くらいか」

「あら、100万対1でしょう」

 それで100万ドルね。なるほど。

「じゃあ、善意の支援者スポンサーとしてダーニャを勇気づけてくるよ」

「ぜひ、そうなさってください」

 ダーニャの客間の場所を聞き、行ってドアをノックした。ダーニャはすぐにドアを開けてくれたが、元気のない表情のままだ。悲しみに沈む王女を慰めに来るのは、2度目だな。

「あなたは、なぜ私の代わりにお金を出すなどと言ったのですか?」

 それに答えるのが一番難しい。ターゲットを手に入れるためなんだけど、説明しようがないよ。

「ああいう場では、金を払うと言っておくものだよ。実際に払うかどうかとは別にね」

「ですが、実際に払わなければならなくなった場合はどうするのです?」

「それはその時になってから考える」

 俺の答えに、ダーニャが眉根を寄せた。綺麗な形なのに、その表情だと台無しだな。

「彼女を騙すつもりなのですか?」

「いいや、払おうと思えば払えるからな。彼女も、俺が払えると思ってたから、飛ぶことに同意してくれたんだろうし」

「それでも、あなたがお金を出すと言った理由が解りません。私か、私の国に、何か対価を要求するつもりなのですか?」

 それはもちろん、ターゲットだよ。しかし、そう言ったとしても、君は答えられないだろう? 架空の王国の時のように、何かの条件を満たしたら、そのはずみで出てくるのに決まってるんだ。

「君や、君の国は、そんな要求に応じる用意はあるのかね?」

「ありません」

「そういう時はどうすればいいと思う?」

「解りません。だから、訊いているのです」

「簡単さ。夜逃げフライ・バイ・ナイトすればいいんだ」

 ダーニャの表情が変わった。呆れたような顔をしている。

「あなたへの対価を踏み倒せと言うのですか?」

「そんなことは言ってないよ。そもそも、君とは何も契約していない」

「では……」

「もう一度言うが、俺がイライザに金を払うかどうかは、後で考えればいいことなんだ。君がバーミージャに戻れば、何か状況が変わる。もしかしたら、金なんて全く問題じゃなくなるかもしれない。そもそも、イライザが200万ドルなんて言い出したのは、君が万難を排して帰国する決意があるかを試したかったんだと思うぜ」

 たぶん、そんなことはないと思うけどな。最初から、俺が金を出すことを想定していたんだろう。

「そうでしょうか。それほど善意があるようには見えませんでしたが」

「疑うより先に、帰国した後の算段を考えておいた方がいいと思うね」

「そんなにうまくいくことばかり考えていても、いいものでしょうか」

「君はフットボールのことをあまり知らないと思うが、ゲームで終盤に逆転を狙う時は、自分たちに都合のいいシナリオばっかり考えるものさ。そしてそれを実現させるのが強いチームってものだ」

「そういうものでしょうか。楽観が過ぎると思いますが」

 無人島では楽観的だったのに、ずいぶんと慎重な姿勢に変わったな。あの時の駆け引きを考えれば、200万ドルくらいはったりブラフで承諾するかと思ってたよ。俺だってスーパー・ボウルMVPという肩書きがあるんで、見栄を張っているだけなんだ。

「ところで、あなたも飛行機に乗ってくれますか?」

「もちろんだ。そうしないとイライザが納得しないだろう」

 金は出すが、危険は分かち合わないなんてのは許されないよ。なおかつ、イライザは俺のことを狙っているようだから、一緒にいることを要求するに違いない。金を持っている男はつらい。

「私のためではないのですか?」

「もちろん、それが主たる理由だ」

「そうですか。よかったです」

 ようやくダーニャが笑顔になった。ただ、何となく背筋がぞくりとする感じだったのが気になるのだが。


 夕食はやはり英国風ブリティッシュ。シェパーズ・パイ、茹でたグリーン・ピースとニンジン、スコッチ・エッグ。シェパーズ・パイはラムの挽肉とマッシュ・ポテトを焼いたもの、スコッチ・エッグはゆで卵を牛挽肉で包んで揚げたもの。イライザがまた一人で作ったようだ。「いつもより一品多いわね」とサブリナが呟く。

 その夕食の前にダーニャが、ジェット機でバーミージャまで送って欲しい旨を、イライザに伝えた。イライザはもちろん承諾。夕食中はずっと機嫌のいい顔をしていた。もちろん、ホリーは機嫌が悪い。

 食べ終わってからリヴィング・ルームへ移動すると、イライザが契約書を持ち出してきた。手回しがいいな。さすが契約社会の合衆国出身。ただ、契約書といっても便箋に手書きで“運送約款トランスポーテイション・アグリーメント”と記し、内容は「イライザ・ヒギンズは、アーティー・ナイトと彼の指定した人物を、彼の指定する場所へ、彼の指定する期日で送り届けること」とあるだけ。危険手当という言葉はどこにもない。

 そしてジェット機の賃貸保証書レンタル・ギャランティー。「イライザ・ヒギンズの所有する航空機を、飛行可能な状態で返却すること」。下には飛行機の型番と、おそらく識別番号。燃料満タンフィル・アップ返しを記載しないのはともかく、傷のことは書かなくてもいいのかね。

 とにかく、どちらも額面は100万ドル。こうして眺めると、書類の安っぽさのせいか、大した金額ではないように思えてくる。もちろん、錯覚だろう。

 さて、本契約。まず前者の人物の指定。ダーニャ、リンディーに署名サインしてもらう。場所はバーミージャ首都、期日は明日3月20日23時59分まで。契約立会人としてサブリナとホリーの署名サインも入れ、最後に俺がクレジット・カード番号を書いて、署名サインした。

 後者の方はクレジット・カード番号と俺の署名サインのみ。さて、こんな契約書がクレジット決済できるのかどうか。

「一応、あなたのクレジット会社に電話で、この契約の件を伝えておいて下さいな」

 イライザが澄ました顔で言う。そりゃ、書いただけじゃあ空証文かもしれないからな。でも、電話なんかできるのか。そもそも、どこに電話すればいいのやら。カードの裏に電話番号が書いてあったか? 固定電話を借りて、その番号に架けてみる。

「ハロー、こちらはユースティティア・パーソナル・コンシエルジュです」

 待て待て待て、嘘だろ、おい! ビッティーの声じゃないか! 次からステージ中にビッティーの声が聞きたくなったら、この番号に架けるか?

「ハロー、こちらはアーティー・ナイトだ。クレジットのことで確認したい」

「はい、ミスター・ナイト、お電話ありがとうございます。担当のレジーナです」

 名前はビッティーではなかった。しかし、ありがとうございますと言っておきながら全然ありがたそうじゃない声の響きは、ビッティーにそっくりだ。

 それはともかく、契約書の内容と金額を伝える。もちろん、合計200万ドルと聞いても電話の声は全く動じない。

「契約書の原本が届き次第、直ちに決済いたします」

 その後に、送付先の住所を言われた。合衆国、フロリダ州マイアミ、ブリッケル通りアヴェニューだと。もしかしたら“財団”の本部があるんじゃないか。

 しかし、たったこれだけのことで200万ドルが動くのかと思うと、拍子抜けだな。

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