#10:第1日 (6) 月夜のフライト
シェーラは自分に与えられた部屋のソファーに座り、所在なく俯いていた。時々、廊下側のドアと、隣の部屋へ続くドアに目を向ける。しかし、どちらからも何の音もしない。
30分ほど前、レディー・ダーニャ――彼女が教育係を務める、総督の娘――に呼び出しがあって、総督の部屋まで案内したが、彼女自身は部屋に戻っているように言われた。いつもなら、総督がレディー・ダーニャに話をするときは、彼女も部屋の片隅で聞いていて何の問題もなかったのに。今日は特別な話であるらしい。
ただ、思い当たることはある。いや、思い当たるどころではない。間もなく非常事態宣言が出されるだろうから、そのことが関係しているに違いないのだ。
総督はきっと、レディー・ダーニャや彼女の二人の姉に、大切な用件を伝えているのだろう。家族にだけ関係している何かを。
窓の外に目をやる。既に陽は落ちているが、月明かりで公邸の前の雑木林が薄明るく照らされている。もしかしたら、これから外へ出ることになるかもしれない。
廊下を忍びやかに歩く音がした。レディー・ダーニャが戻ってきたのだろう。だが、呼び出されるまで、シェーラは待たなければならない。
隣の部屋のドアが開く音がしてから、どれくらいの時間が経っただろうか。先の30分よりも、よほど長い時間に感じられる。そしてようやく電話の呼び出し音が鳴った。急いで受話器を取り上げる。
「はい、
「シェーラ、すぐにこちらへ」
「かしこまりました」
シェーラは電話を切ると、隣の部屋へ通じるドアに小走りで駆け寄り、二つ深呼吸をしてからノックをした。すぐに「
「
「シェーラ、こちらに来て、お座りなさい」
シェーラは彼女の主人の下へ急いだ。レディー・ダーニャはシェーラよりも若く、小柄だが、聡明な顔立ちに、名家の風格を漂わせている。シェーラはいつも彼女の主人のことを誇りに思っていた。だが、今夜のレディー・ダーニャは、不安そうな表情を隠さなかった。
「シェーラ、やはり私は行かなければならないようです」
「まあ、では……」
シェーラはそこで口を閉じた。この部屋では、盗聴を恐れなければならない。余計なことを言ってはならないのだ。
レディー・ダーニャは手話で意を告げ始めた。だが、その手話も、普通のものとは違っている。それぞれの語に、別の意味が割り当てられている。総督の関係者だけが解る、特別のものだった。
その話というのはこうだった。
先日からこの状況についてあなたと話し合ってきましたが、それが現実のものとなってしまいました。やはり近隣の連邦国へ援助の依頼に行きます。ですが、姉たちと、私とで、それぞれ別の国へ行くことになりました。私は……。
その国名はシェーラにとって意外ではなかったが、想定していた三つの可能性のうち、最も低いと考えていたところだった。もちろん、シェーラには異を唱えることもできない。
「かしこまりました。それで、お発ちになるのは?」
「準備ができ次第、すぐにでも、ということでした。いいえ、もう行きましょう。急がなければなりません。荷物の準備はできていますね?」
「はい、もちろん、既に私の車に……」
「結構です。すぐに行きましょう」
レディー・ダーニャは立ち上がり、机に載せていたショルダー・バッグと小さな木箱を手に取った。そしてシェーラを急がせ、部屋を出た。
シェーラには持って行くものなど何もない。何よりもレディー・ダーニャが大事だった。
公邸の裏口を開け、周りに誰もいないことを確認してから、あらかじめ停めておいたシェーラの車に、レディー・ダーニャと共に乗る。レディー・ダーニャは後ろのドアを開けると、シートの足下に潜り込んでブランケットを被った。
お可哀想な
もちろん、隠れたところで、この車がシェーラのものであることは相手にも判っている。跡を尾けようと思えば尾けられてしまうだろう。しかし、彼女の姉たちと、三手に分かれれば、相手の注意を分散させることができるかもしれない。
「出発します、
「船出には良き月夜ですね」
レディー・ダーニャの言葉に驚きながらも、シェーラは車をスタートさせた。「船出には良き月夜」、それは暗号の言葉だった。
もちろん、それがどこにあるかは知っている。だが、あの飛行機で、本当にあの国へ行くことができるのだろうか。しかし、シェーラにとって今は指示に従うしかない。
公邸の門を抜け、長い取り付け道を通って市街地に入り、ずっと東の郊外に向かって車を走らせる。郊外といっても、狭い島のことで、そこまで5キロメートルほどしかない。しかも、中心部の市街地を1キロメートルも走るとサトウキビ畑で、港と
後ろから付いて来る車がないか、前で待ち伏せている車がないか、シェーラはずっと心配しながら運転していたが、月明かりの中に管制塔のシルエットが見えたときには、ほっとして思わずため息を吐いた。
「間もなくですわ」
シェーラは後部座席に向かって、小さな声で語りかけた。もとより返事はなく、身動きする気配すらなかった。まさか、途中でレディー・ダーニャを落としてしまったのではないか、と思うほどだった。
飛行場の格納庫の前に着き、車を停めると、二人ばかりの係員が格納庫の鉄の扉を開く。シェーラは素早く降りて、後ろのドアを開け、「
「着きましたわ。どうぞこちらへ」
「
シェーラはレディー・ダーニャの手を取って車から降り立たせ、後ろのトランクから荷物を取り出した。開かれた鉄扉の中から、小柄な女性が出て来て、レディー・ダーニャに敬礼した。整備士兼操縦士のリンディー。もちろんシェーラもレディー・ダーニャも彼女のことを知っている。
「
レディー・ダーニャは無言で頷き、リンディーの後に従った。シェーラも荷物を持ってついていく。
格納庫の中は最低限の灯りしか点いておらず、薄暗かった。もちろん、夜間のフライトに備えて、目を慣らすためにわざとそうしているのだ。
格納庫は通り抜けただけで、また外に出て、
この
「チャック! チャック、どこにいるの?」
飛行機の前で、リンディーが辺りに声をかける。後ろから足音がして、痩せた少年が走ってきた。
「ここだよ、リンディー」
「飛行機を見張っててって言ったのに!」
「主任に呼ばれただけだよ。心配ない、他には誰もいないんだ」
だが、シェーラは飛行機に向かっているときに、格納庫の出口の辺りで人影が動いているのが見えた気がしていた。あれがチャックだったのだろうか? リンディーやレディー・ダーニャは気付かなかったようだが……
「失礼しました、
薄暗い中でも、リンディーの表情が硬いのが判る。レディー・ダーニャを乗せて飛ぶから緊張している、というわけではないだろう。レディー・ダーニャが軽く頷くと、リンディーが唾を飲んだ後で言った。
「カリブ海西方、ホンジュラス沖で、この季節には珍しいトロピカル・ストームが発生したとのことです。発達しながら北進し、ハバナ上空から、フロリダ半島に至る経路を取ると予測されています。困ったことに、当機の現時点での飛行計画では、ハバナ沖でトロピカル・ストームに遭遇する可能性が高いのです。2時間ほど出発を遅らせれば、その可能性は低くなりますが、いかが致しましょうか」
「いいえ、出発を遅らせることはできません。回避する経路を取ることはできませんか?」
「検討しましたが、キューバ上空を飛ぶ経路は飛行計画の許可が降りませんでした。もっと南寄りの、キューバの南方を迂回する経路だと、倍以上の時間がかかってしまいますので……」
「では、いっそのこと、ケイマン諸島か、あるいはジャマイカを経由して、明日にバハマへ飛ぶことにしてはどうでしょうか? 連邦国ですから、何らかの便宜が図ってもらえるかと……」
シェーラが口を挟んだが、レディー・ダーニャは軽く首を振り、少しばかり笑顔を見せながら言った。
「いいえ、シェーラ、それでは下の姉と同じ経路になってしまいますから、避けなければならないのです。リンディー、あなたのテクニックを信用します。トロピカル・ストームの進路情報に注意して、飛行計画を外れない程度に、最適な経路を飛んで下さい」
「
足下にある低いステップを指しながら、リンディーが言った。これに乗り、それから翼の上に乗って、そしてキャビンに入るようになっている。レディー・ダーニャは何度か乗ったことがあるはずだが、シェーラは初めてだった。
「
レディー・ダーニャは慣れた足取りでステップを昇り、キャビンに収まった。シェーラはチャックに手伝ってもらい、キャビンの後部に荷物を載せ、それからレディー・ダーニャの隣に座った。そしてシート・ベルトを装着する。
最後にリンディーが乗ってきて、
どうしてこんな、密やかに出発しなければならないのか、とシェーラは思った。まるで、国を捨てて逃げ出すかのようだ。だが、総督が決めたことであり、レディー・ダーニャも納得したことなのだ。逃げるのではない、保護を求めに行くのだ。
滑走路の端で飛行機が一時停止し、リンディーが窓から格納庫の方に
「Roger, Bermeja-04 is cleared for take-off!」
両翼のエンジンがうなりを上げ、飛行機がゆっくりと走り出す。シェーラはほとんど飛行機に乗ったことがなくて、出発時のこの揺れは苦手だった。
ちらりと、隣の席を見遣る。レディー・ダーニャはいつものように落ち着いた表情で、じっと前を見つめていた。プロペラが空気を切り裂き、飛行機は瞬く間にスピードを上げ、ふわりと浮き上がった。そして煌々と輝く月に向かって高度を上げていった。
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