#9:第5日 (15) 歌姫への面会

 いつまでも引き留めようとする美人ディーラーたちの手を振り払い、9時半頃にキャバレーへ戻った。席に座ると、教授が顔を少しこちらに向け、目を細く開けたが、女二人は微動だにせず舞台ステージを見つめている。マルーシャは俺の知らない曲を唄っていた。知らなくても、唄い方が神懸かり的ディーヴァであることだけは判る。気をしっかり持っていないと惹き込まれてしまいそうだ。

 唄い終わると、観客が総立ちになって拍手する。そしてその拍手はいつまでも鳴り止まず、司会者がマルーシャに近付いても、何も話しかけることができない。結局、そのままインタヴューもせず、緞帳が下りてきて、手を振るマルーシャの姿がその向こうに隠れた。それでもまだ拍手は続いている。だが、カーテン・コールはなさそうだ。

 少しずつ、拍手の音が小さくなっていき、それと共に客席のざわめきが大きくなっていく。隣のジャンヌは拍手を止めた手を、祈るように合わせたまま立ち尽くしていたが、長い嘆息と共に、力が抜けたかのように椅子に座り込んだ。

「どうだった、彼女の歌は」

「えっ……ああ、ごめんなさい、感動で頭がぼうっとして、何も考えられないし、言葉も出てこないわ……」

 そしてぐったりとした様子で、また大きなため息を吐く。君が唄っていたわけじゃないのに、どうしてそんなに疲れてるんだ。しかもなかなか腰を上げようとしない。

 向こうのジョアナは教授から話しかけられて、興奮した様子で受け答えしている。しかし、昨夜は彼女もジャンヌのように放心していたかもしれない。「楽屋を訪問して、少しだけでもいいからお話と」とジョアナが言うのを、教授が巧みに宥めている。俺が楽屋に呼ばれているのを言うべきかどうか。

「急に押しかけていっても、彼女も困惑するだろうし、明日、コレットに頼んで楽屋を訪問できるようにしてもらおう。それより、本の執筆の方は大丈夫かね?」

「ああ、いいえ、それは何とかしますわ。でも、彼女とお話をすることで、何か大きな発見ができるように思えてならないんです。彼女の歌は、芸術という領域を超えて、私たちの領域である学術や冒険をも包含する力を持っているように思うんです。執筆にもきっと活かせると思いますわ」

 なかなか鋭い洞察力だな。俺もマルーシャの本業はスパイじゃないかと思ってて、それなら科学的な知識はおろか、国際政治まで知り尽くしてるだろうし、映画さながらの冒険だってしてるだろうってな。

「ジャンヌ、アーティー、僕らはホテルへ戻って、バーにでも行くことにするが、君たちはどうするかね?」

「俺は賭場の調査に戻らなきゃあ。ジャンヌ、君は?」

「私は……もう少ししてから、ピットへ戻ることにするわ」

 もう少しって、何するつもりなんだよ。しかし、教授はそこには突っ込まず、「それじゃあ、また」と言ってジョアナと共に去って行った。ジャンヌはまだ腰を上げない。マルーシャのところへ行くまで、あと5分しかないのだが。

「少しは落ち着いたか」

「ええ、少しは。でも、本当に驚いているの。まさか、オペラというか、歌でこんなに感動するとは思ってなかったから。私には音楽の理解力なんてないと思ってたし、絵画や文学にも興味がないし、だから芸術アートとは無縁だと……でも、理解する力はなくても、感動することがあるんだって思うと、とても不思議で……ごめんなさい、自分でも、何を言っているのか解らなくなってきたわ……」

 そしてまたため息。完全に脱力してるなあ。このまま放っていくわけにもいかないし、どうするかな。しばらく待ったが、楽屋訪問まであと1分。きっちり時間を守る必要もないけどな。立ち上がる気配を見せないまま、ジャンヌが呟く。

「私も彼女に会って話がしてみたいわ……」

 またそんなお約束の台詞を言う。やっぱりこういう展開もシナリオのうちか? それとも、こうなるようにマルーシャが俺を操っているのか。

「会いに行くか」

「えっ!?」

 ジャンヌがものすごい勢いで俺の方へ振り向いた。それまで脱力して緩慢だった動きが嘘のようだ。

「俺なら楽屋に入れる」

まさかトゥ・プレザント……」

「あいにく、俺は君の無茶な願いを叶えられる不思議な力を持ってるんでね」

 言いつつ俺がボックス席を出ると、慌てて後からジャンヌが付いてきた。まだ雑踏しているエレヴェーター・ホールを尻目に、舞台裏の方へ向かう。通路奥のドアの前に客が十数人たむろして、見張りの男たちと押し問答をしている。どうせ楽屋に入れる入れないで揉めているのだろう。

 そこをかき分けていくと、昨日の見張り男が目敏く俺を見つけ、「どうぞ」と言ってドアを開けてくれた。便乗して入ろうとする客を別の見張り男が押しとどめ、その隙に細く開いたドアの狭間から入る。

「ああ、マドモワゼル、あなたは楽屋へは……」

 俺は入れたが、ジャンヌが足止めを食わされた。手をつないでおけば良かったかな。

「彼女は俺の連れだ。フロア・マネージャーには俺が許可をもらうよ」

 見張り男に俺が言うと、半信半疑の顔ながら、ジャンヌを中に入れてくれた。

「あの人たちもみんな、マルーシャに会いたがってるのね」

「そうだろうな」

 昨夜はあんなことはなかったんだが、マルーシャの歌というのは1回目は放心してしまい、2回目は興奮してしまうのかもしれない。フロア・マネージャーがいるドアの前まで来たが、ジャンヌを見て少し当惑しているのが判った。

「これはようこそ、マドモワゼル・ジャンヌ・リシュリュー。ですが……」

「俺が連れてきたんだ。彼女にも会ってもらえるか、マルーシャに訊いてくれないか」

「かしこまりました。少々お待ちを」

 ノックをして、フロア・マネージャーが楽屋に入っていったが、10秒も経たないうちに戻って来た。

「お二人にお会いになるそうです」

「ありがとう」

 2ドル硬貨をフロア・マネージャーに握らせ、ジャンヌを連れて楽屋に入る。マルーシャはテーブルの横で、立って俺たちを迎えていた。その立ち姿の優雅なこと!

「こんばんは、ようこそ、アーティー。それから、初めまして、マドモワゼル・ジャンヌ・リシュリュー。あなたのお名前はこちらへ参る以前から何度も伺っておりますし、お顔も存じておりますわ。今夜、あなたのご訪問を受けるなんて、何と光栄なことでしょう。ソファーにお座りになって、ゆっくりなさって下さい。すぐに、お茶とお菓子も用意させます」

 そしてその表情の、気だるくも優しげなこと。公演を終えて疲れているけれども精一杯歓待します、という感じだな。昨日とはえらい違いだ。そもそも、昨日は疲れている様子なんて全くなかったから。

 ソファーに座ると、楽屋奥のドアにノックがあって、レストランのウェイター服を着た男が、銀盆を持って現れた。そしてコーヒー・カップとケーキの皿をテーブルに置く。どうやらあのドアは下のレストランとつながっているらしい。

「マドモワゼル・リシュリュー、今週末はカナダ・グランプリで、特に明日は予選がおありですのに、その忙しいさなかに私の歌をお聴き頂いて、そしてこうして楽屋をご訪問頂いて、大変嬉しく思います。私はモーター・スポーツのことはほんの少ししか存じませんけれど、あなたのご活躍はよく存じておりましたから、モントリオールに来た時から、日曜日の決勝レースは必ず観戦しようと思っていたのです。レースのチケットがなかなか手に入らないので、ここでのコンサートの開催条件に、チケットを含めようかと迷ったほどなのですわ。本当に、今から楽しみでなりませんの。先日のモナコ・グランプリを超えるような、素晴らしいレースを期待しています」

「そんなにも私に注目して……ええ、もちろん、明日からのレースにはベストを尽くします。一つでも上の順位を目指して、頑張るつもりです」

「そういえば、昨日のプレス・インタヴューもTVニュースで拝見しました。私もあなたのファンの一人として、あなたが大きな幸運を掴まれることを期待しています。でも、あなたは運だけでなくて、素晴らしい実力の持ち主だと信じていますから、表彰台に上がるのも時間の問題だと思っていますわ」

「いえ、あの……ありがとうございます。ベストを尽くします。あの、私もあなたに伺いたいことが……」

「まあ、そうですの。何なりとどうぞ」

「えーと……」

 質問の機会を与えられたが、ジャンヌはまだ頭が混乱しているのか、なかなか言葉が出てこない。そもそも、さっきから話し方がやけに丁寧になっていて、普段とは大違いだ。そうして戸惑うジャンヌのことを、マルーシャが愛情溢れる目で見つめている。こちらも普段とは大違いだ。もちろん、トレドの時とも違う。

 俺はすることがなくて、辺りを見回す。マルーシャの荷物らしき物は置いていない。ハンガーにライト・ピンクのスーツと白いブラウスが掛かっているが、恐らく彼女の私服だろう。横のテーブルに目を移すと差し入れの菓子の箱が十数個も積まれている。

 一つだけ開けられていて、見覚えがあると思ったら俺が差し入れたレモン・パイだった。中は既に空になっている。直径10インチはあったはずなのだが、もう食べたということだろうか。今さら彼女の食う量には驚かないつもりだったが、速さも尋常じゃないなあ。

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