#9:第2日 (2) ガラスの塔

 さて、こうして大勝ちしたときは、ディーラーにチップ――もちろん現金の――を渡すものだと聞いている。カジノ・チップは後で換金するとして、持ち運びやすいように“$100”チップ2枚に替えてもらい、彼女には20ドル紙幣を渡した。とても嬉しそうな顔で「ワオ! ありがとうございます!」と言うので、ついでに名前を聞く。

「マーゴです」

 どうしてこのカジノの女性はみんなニックネームしか答えてくれないのだろうと思う。

「OK、マーゴ、君のおかげで楽しめたよ。後で一緒に昼食でもどう?」

 あれ、どうして俺は彼女を食事に誘ってるんだ? 今まで初対面の女性を食事に誘うなんてことはなかったのに、彼女の笑顔を見ていたら、つい……

「まあ、ありがとうございます! でも、勤務時間中にお客様と食事に行くのは禁じられてるんです。休憩時間も同じなんです」

 ああ、そうだろうな。あんまり客と馴れ合ってたら、イカサマにつながる可能性もあるだろうし。カジノってのはそういうところだ、残念だけど。

「でも、今日の仕事が終わってからでしたら……」

 え、いいの?

「えーと、それは何時頃……」

 しかし、咳払いの音が俺とマーゴの会話を邪魔する。テーブルに残っている男たちが、ゲームを続けたがっているのだ。あれだけ負けてるのに、まだやるのか、あんたら。

「4時です」

「じゃあ、4時頃に、また」

「はい、では、また後で!」

 マーゴの嬉しそうな笑顔を見ているだけでも別れがたいのだが、我慢に我慢を重ねてその場を去る。あの胸が揺れるのを見ているだけでも、いくらでも時間を過ごせそうな気がするけれども。まだゲームを続けようとしている男たちも、実は彼女の魅力に縛られて動けないのかもしれないと思えてきた。

 しかし、俺を呼び出したあのメッセージの主は、結局現れなかったな。マーゴがあんな下手な字を書くはずはないし、いや、顔だけで筆跡を判断できないのは解っているけれど、いったい誰なのだろう。あれ、よく考えたら、彼女に直接訊けば良かっただけでは? 今から戻って訊くのも何なので、夕方彼女に会えるなら、その時に訊いてみることにしようか。

 換金所へ行き、チップを渡す。え、現金では返してくれずに、銀行振り込みか携帯端末ガジェットにチャージするだけ? 現金が少なくなってきてるんだけど、どうするかな。とりあえずこのチップは、しばらく持っておくか。誰かに売りつけることもできるだろうし。

 本館へ行く渡り廊下を通っていると、カウボーイのような格好をした男とすれ違った。ダーク・グリーンのテンガロン・ハットに、ブルーのシャツ、カーキ色のベスト、そしてベージュのスラックス。今だにこんな時代遅れの格好をしている男がいるというのも珍しいことだが、どこかで見たような気もする。ブラックジャックのテーブルへ行ったときに、あんな姿の男がいたような。しかし、俺が席を立った時にいなかったのは確実だ。

 あの男がメッセージの主かもしれないけれど、そうであって欲しくないという期待の方が大きい。男とは、あまり待ち合わせしたくないというだけだが。


 カジノを出て、サーキットに入り込み、南へ歩く。一応、ピットの建物を見に行こうと思う。200ヤードほど歩いたところで、道が分かれる。右の太い道が、たぶん昨日放り出されたホーム・ストレートへ続く方だろう。そして真っ直ぐの細い道がピット・レーンだな。その細い道を行く。

 100ヤードほど向こうに、ガラス張りの塔と、広い階段が見える。ピット兼観客席か。ちょっとしたクランクを曲がると、建物の全容が見えた。300ヤードはありそうな長い建物の、1階にピット・ガレージがずらりと並んでいるが、全てシャッターが降りている。2階と3階は観客席で、2階はガラス壁付き、3階は壁なしだ。もちろん、屋根は付いている。

 建物の裏側も見てみたが、同じく1階は全てシャッターで閉鎖中。一番南の端に管制塔があるはずなので、そこまで歩く。そのあたりだけ少し建物の造りが違っているが、管制塔という雰囲気ではない。空港の管制塔のように、高くなっているということもない。南側の端に行くと、入口らしきドアがあった。もちろん錠が下りている。しかしそれをピックで開けて、ちょっと中を覗かせてもらう。

 入ると広いスペースがあるが、応接室のような机と椅子が置いてあるくらいで、それ以外は特に何があるわけでもない。映画館のロビーのようなものだ。

 2階へ上がると、TV局の編集室のように、たくさんのディスプレイが並んだ部屋があった。他に、内装がちょっと綺麗な部屋があって、恐らく貴賓室であると思われる。使ったことがあるかは判らない。ジル・ヴィルヌーヴの写真でも飾ってあるかと思ったが、そんなこともなかった。もっとも、俺はジル・ヴィルヌーヴの顔を知らないので、誰の写真が飾ってあっても判らないのだが。

 ついでに、観客席へも行ってみる。2階はフットボールのスタジアムにもよくある、個室になった特別観客席だ。3階は思ったとおり、屋根付きのオープン・テラス。年に何回、ここでレースが開催されるのか知らないが、なかなか贅沢な造りだ。NFLのフットボール・スタジアムも、ホーム・ゲームは年に8回くらいしかないが、その他の用途もあるからな。

 ともあれ、侵入経路は調べる必要もなかったくらい、簡単な造りだ。これなら人目がない限り、いつでも忍び込めるだろう。現に今だってそうだった。まだ午前中で明るいのに!

 さて、次はどこへ行くかな。サンテレーヌ島へ行って、道順からすると、まずレヴィ塔を……おっと。下から車の音がしたので、無意識のうちに身体が動いて身を隠す。音が止まってからそっと顔を出して覗くと、建物の南側のガレージに、大きめの車が一台停まっていた。キャンパーだな。レースの準備をする工事の車でも来たのかと思ったが、違うようだ。

 しばらく待ったが、誰も降りてこない。見つからないうちに、サーキットから出た方が良さそうだ。コースを真っ直ぐ歩けば見つからないだろう。北側の大階段を降り、カジノの近くまで歩いてからコースの外に出る。

 カジノ付近の道をうろうろと歩き、時々“壁”に行く手を阻まれながらも、何とかサンテレーヌ島へ渡るコスモ橋に辿り着くことができた。目の前に見えているバイオスフィアにも入ってみたいが、無人ではないはずだし忍び込むことはできないし、やはりレヴィ塔へ行くことにする。

 昨日と同じように森の中の細道へ入り込み、しかし昨日よりはすんなりと塔へ辿り着くことができた。やはり一度来ると道筋が簡単に思えるようになる。入口の錠は昨日見たとおり南京錠で、ちょっとピックでいじったら予想どおり簡単に開いた。

 扉を開けて、中を覗く。薄暗くて、目が慣れてくるとだんだん見えるようになる。塔の真ん中に太い柱。その周りに4本の鉄骨。何を入れているのか判らない鉄製のロッカーがいくつか。塔の内側の壁を巡るように、螺旋状になった階段があって、屋上まで登れる。その階段に沿って、一定の間隔で明かり取りの窓が開いている。ほぼ、がらんどうだ。

 あのロッカーを開けるべきかな。でも、たいしたものは入っていない気がする。必要ならもう一度来ることにするか。扉を閉め、錠を元通り掛け直しておく。

 森を出て、スチュワート博物館を目指す。しかし、今日も閉まっているはずだ。レヴィ塔と同じく、忍び込むための下調べくらいしかできないだろう。警報装置が完備されていたら、錠すら触れないかもしれない。

 入口は昨日見たとおり電子錠だが、その他にもいくつか扉があるので、一つずつ見て回る。もちろん窓も見る。こんなことをしているのを傍目に見られても、建物が古いだけに、錠ではなくて建物そのものに興味を持って見ている人と思われることだろう。

 扉はどれも鍵穴がないのに錠が掛かっていて、たぶん建物の内側からしか解錠できないものと思われる。一番南側の翼の裏手にある扉だけが、電子錠でなく普通のピンタンブラー錠だった。ピックで鍵穴を探ってみたが、簡単に開きそうだ。が、建物の中の警備システムがどうなっているかよく判らないうちは、迂闊に開けるべきではないと判断する。何しろ、明日になればここは普通に開館するんだから。

 さて、次はもう一度ラ・ロンドだ。園内は昨日一通り見て回ったが、1ヶ所だけ、チェックが甘かったのに気付いた。ヨット・ハーバー。園の北側に、湾のように切れ込んだところがあって、そこに船やヨットが泊まっているはずなのだ。もし、船かヨットに乗ることができれば、対岸に渡れるかもしれない! もっとも、俺は船もヨットも操縦できないので、船の持ち主と知り合いになるしかないだろう。女がいいなあ。

 開園したばかりのゲートを通る。“パスポート”を持っているので、チケットを買う必要はない。真っ直ぐ歩いて、木造ローラー・コースターのモンスターの脇を通り抜ける。マリーナ・ラ・ロンドという建物が見えてきた。その脇に、ハーバーの方へ降りる小さな階段がある。その階段を降りてみる……降りられない。“壁”があった。船に乗るどころか、船着き場にすら行けないのかよ。

 仕方がないので、マリーナ・ラ・ロンドに入ってみる……入れない。やはり“壁”があった。船どころか船に関係するところにすら近付かせんぞという意味か。諦めるしかなさそうだな。

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