#4:第2日 (5) 冷たい食事
ゆっくりと街を登って
「
ゾフィーはいかにも人の良さそうな笑顔を浮かべながらそう言った。昨日も思ったのだが、この娘の顔立ちはこの国の他の女と比べると異質の美しさがある。婆さんも品が良さそうな顔だったし、外国の血統が混じっているのかもしれない。もっとも、そういう俺だって色々な血統の混合人種なのだが。
「そうだな、すぐに頼む」
「かしこまりました。すぐにお持ちしますので、お部屋でお待ち下さい」
ゾフィーはそう言って優雅に頭を下げると、“中”へ戻っていった。部屋に戻ってしばらくすると、ドアにノックがあった。さすがにこんなに早く来るとは思ってなかった。ポケットから持ち物を出す暇もないくらいだ。
「アーティー、夕食持ってきたよ」
マリーの明るい声がする。ドアを開けるとマリーが大きなトレイを両手で持って立っていた。トレイの上には薄い木の板に載せられたオープン・サンドウィッチ、皿一杯のポテトのサラダ、ワインのボトルとグラス。まさか、前菜というわけではあるまい。これが夕食の全てか。噂に聞く“
「明日からは、ドアの横のこのテーブルに載せておくからね。食べ終わったらトレイをテーブルに戻しておいて。後で取りに来るから。今日は中まで運んであげる」
ドアの横に小さなテーブルがあったのだが、このためだったのか。ドアを大きく開けてやると、マリーは部屋の中に入ってテーブルの上にトレイを載せた。
「これで足りる?
「いや、これで足りるだろう。ありがとう」
「よかった。それじゃ、
マリーは笑顔で部屋を出て行った。さて、食事だ。オープン・サンドウィッチなのだが、ナイフとフォークが付いている。これで食うのか。まあ、手で摘まんで食べても構わないだろう。ワインはコルクが抜いてある。他に飲み物がないので、これを飲むしかない。白ワインで、ラベルに書いてある文字はやはり読めない。
テーブルの上に地図を広げながら、今日調べてきたことを書き込む。なぜかはよく判らないが、食べながら地図を見ると記憶の再生が促進される。ハムとチーズがうまい。ワインの味はよく判らない。
しばらくすると、下でノッカーの音がした。ハーレイ氏が帰ってきたのだろう。ちょっとした会話の後、階段を上がってくる音がする。ここの階段は木製で、古いせいか軋んで音が鳴るのが困る。夜中に抜け出しにくい。まあ、バス・ルームが下にあるから言い訳は難しくないのだが。
ハーレイ氏が部屋に入ってから数分後に食事が運ばれてきた。廊下の会話を漏れ聞いていると、運んできたのはゾフィーのようだ。昨日の経緯からだと思うが、俺にはマリーが、ハーレイ氏にはゾフィーが世話をすることになっているようだ。別にそれで何も問題はないのだが、ゾフィーともう少し会話をする機会が欲しいように思う。
食べ終わってトレイを外に出す。明日行く予定のラエティアのリーフレットを読んでいると、ドアにノックがあった。勝手にトレイを持って行くんじゃなかったのか。「開いてるよ」と声をかけるとドアが開いてマリーが顔を覗かせる。
「アーティー、ワインがいっぱい残ってるよ。飲まないの?」
マリーはボトルとグラスを持って部屋に入ってきた。遠慮がないと言うか大胆と言うか。
「残念だが、あまり飲めないんだ」
「ええー、飲めないの? でも、ここに置いておくね」
マリーがボトルとグラスをテーブルの上に置く。置いておけば飲むとでも思っているのか。すぐに帰るかと思ったら、テーブルの上の地図を覗き込んでいる。
「ホーエンブルクに行ってたんだよね。王宮くらいしか見るところがなかったでしょう?」
さすがによく知っている。だが、俺が本当は何をしに行ったのかは想像も付かないだろう。
「うん、そうだな。まあ、ほとんどの時間は美術館にいた」
「美術が好きなの?」
「そういうわけじゃないが、静かに時間を過ごすにはいいところだよ。それより、足の調子はどうだ?」
何を見てきたかなどを色々突っ込まれるとボロを出しかねないので、話を逸らす。
「うん、もうほとんど平気だよ。坂道とか階段を登る時はちょっと痛むけどね」
「そうか。でも、とにかく毎日足を冷やせ。3日間は続けるんだ。そうすれば早く治る」
「そうなんだ。よく知ってるね。アーティーもドクトルなの?」
「違うよ。俺はフットボールをやってるから、怪我には詳しいだけだ。マリーはいつから畑で働いてるんだ?」
仕事のことを訊かれるのは嫌なので、また話を逸らす。
「一昨年から。もうすぐ3年目だよ」
「学校は?」
「
「そういえば学校の博物館というのにも行ったな。そんなに興味深い展示じゃなかったが」
「あー、あれ、私も行ったことあるよ。あんまり面白くないよね」
意見が合うのは嬉しいことだが、マリーはなかなか俺の部屋から出て行こうとしない。別に無理に追い出そうとは思わないが、薄着の若い娘が夜に男の部屋で堂々と長居するのはどうかと思う。
「この近くには何か面白いところはあるのか?」
仕方がないので話を続ける。相手はキー・パーソンのはずなので、親交を深めておくのは悪いことではない。ただし、あまり深入りはしたくないのだが。
「ヒューゲルシュロスは行った?」
うん? 今、“ヒューゲルシュロス”が同時通訳されなかった。まあ、意味はだいたいわかる。“丘の城”だろう。
「丘の上に立っている古い城か? あれは昨日行った」
「じゃあ、
「ワイナリー……丘の向こうにいくつかあるやつか。あれはまだだ」
「これ作ってるところもあるよ、見に行ってみて。あ、でも、アーティーはワインあんまり飲まないから興味ないのかなあ」
マリーがテーブルの上のワイン・ボトルを傾けながら言う。
「いや、俺は工場見学は結構好きだぞ。だから、見に行こうと思うんだが、いつにするか……明日はラエティアへ行くんだ。あそこで見に行くところはリッツェル島と博物館と大聖堂と……他に何かあるか?」
「うーん、それくらいじゃないかなあ。ゾフィーに訊いてこようか?
俺の返事を聞く前に、マリーは部屋を出て行った。ゾフィーが
「ドクトルの部屋で話してるみたい。昨日も結構夜遅くまでドクトルの部屋にいたの。後で訊いておくね」
そりゃお前、ハーレイ氏にとってゾフィーはキー・パーソンなんだろうから、親交を深めてたんだろうよ。ハンサム・ガイだし、話もうまそうだし、女をたらし込む、と言ったら失礼かもしれないが、そういうことはお手の物なんじゃないか。しかし、だからといってマリーまで俺の部屋で話し込む必要はないっての。
「他に何か訊きたいことある?」
いや、ないって。そもそも最初はお前の方から話しかけてきたんだろ。オックスフォードの娘たちと違って難しい話をしないのは助けるけど。それに、こんな性格のいい娘を邪険に扱うようなことはしないがな。
「そうだな、姉さんにはラエティアのことより、ザンクト・マルティンとモントフォールのことを訊いておいてくれ。明後日行く予定だが、リーフレットだけじゃよく判らん」
「解った、明日の夜までに訊いておくね。他には?」
「君はザンクト・マルティンやモントフォールへ行ったことがあるか?」
「ザンクト・マルティンへは一度だけ行ったことがあるよ。修道院を見に」
それがザンクト・マルティンの見所の一つであるのは解っているので、聞いてもさほど役には立たないか。
「じゃあ、ラエティアは」
「リッツェル島の蝶の温室が好き! 他はよく憶えてないの」
「そうか。じゃあ、やっぱり姉さんに訊いておいてくれ」
「解った! じゃあ、
マリーはそう言うと部屋を出て行った。どうしたものかなあ、キー・パーソンと親交を深めて話を聞き出す必要があるのは解るが、あんまり仲が良くなりすぎると後がつらいから困る。仮想世界の中の仮想人格と割り切ることができないのが俺の弱みかな。
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