#3:第4日 (5) ワット・ザ・ヘル!

 大学寮へ帰る前に、ブラックウェルズに寄った。入口の辺りでいきなりルイーザに会った。ルイーザは純真な笑顔を浮かべながら俺に挨拶してきた。

こんばんはグッド・イヴニング、ナイトさん! また私に会いに来てくれたんですね」

 昨日もそんなこと言ってたよな。そういうことを言うタイプの娘じゃないと思ってたんだが、昨日から性格が変わったのか。

「ああ、それももちろんだけど、今日は本も買いにね。コリン・デクスターの本はどこに置いてる?」

「コリン・デクスターですか。こちらです。推理小説もお好きなんですか?」

 推理小説家だったのか。そうか、もしかしたら、爺さんの本棚に入っていたのかもしれない。推理小説がぎっしり詰まった、あの本棚。俺はコナン・ドイルとクリスティーの他は、作家の名前くらいしか読んだことがなかったが。ルイーザに案内された本棚には、同じように本や映像ソフトがぎっしりと詰まっていた。平積みもたくさんある。

「驚いたな、こんなにあるのか?」

「ええ、デクスターはオックスフォードに住んでますからね。インスペクター・モースのシリーズはオックスフォードの近辺が舞台ですし、アランも大好きなんですよ。私は読んだことないですけど。でも、小さいときにTV番組は見ましたよ。14冊全巻コンプリートセットはいかがですか? ほら、こうして専用の本箱ボックスに入ってるんですよ。私が買うことにすれば、ちょっとだけ割り引きできますけど」

 ちょっと待て、君がそんなセールス・トークをしてくるとは思ってなかった。何か変だぞ、今夜の君は。

「いや、そんなにたくさん買っても読み切れないよ。1冊か2冊だけでいいんだ」

「そうですか。じゃあ、ごゆっくりお選び下さい。私、閉店まで会計キャッシャーにいますから」

「ありがとう、また後で」

 俺がそう言うとルイーザは入口辺りに戻っていった。が、すぐに引き返してきて、今度は小さな声で言った。

「あの、今夜も夕食を一緒にどうですか? アランは来ませんけど、サラが来ます。ホワイト・ホースで、7時からです」

「ああ……ええと、今日はどっちの講義だっけ?」

 ルイーザがくすくす笑いながら答える。

「今日も私の方を聞いて欲しいです。昨日のことはサラには言ってませんから」

「OK、お手柔らかになゴー・イージー・オン・ミー

「はい、それじゃあ、また後で」

 ルイーザがそう言って戻っていく。別に俺は彼女たちと研究の話をするのは嫌じゃないんだが、彼女たちから有益な情報を聞き出すためにやってるんじゃないって気がしてきた。さて、コリン・デクスターの作品で、"THAT"の入っているタイトルは……探したが、一つしかなかった。ペーパーバックの方は、アンナが読んでいたのと表紙のデザインも同じだった。それを持って会計キャッシャーに行く。笑顔のルイーザに代金を払って、本屋を出た。もちろん、これを買ったのはアンナが読んでいたからだ。彼女が単に暇潰しのために小説を読むとは思えない。必ず何かあるはずだ。

 待ち合わせの7時まであと40分ほどなので、寮に戻っていたらポケットの中の物を置くくらいの時間しかない。道路の反対側に渡って、シェルドニアン劇場の塀にもたれながら、今買ったばかりの本を読む。いつものような斜め読みよりは、もう少し丁寧に読む。アメリカからの観光客がオックスフォードへ来た。アッシュモレアン博物館とザ・ランドルフが出てきた。人が死んだ。ウルヴァーコートの留め具タンだと? 何てこったワット・ザ・ヘル

 まだ途中だったが、本を閉じた。最後まで読めばもっとヒントになるようなことが書かれているのかもしれないが、今はここまでで充分だ。そしてアンナの慧眼に敬服する。こういうシナリオがあり得るということか。俺の頭じゃ、思い付くはずがない……いや、待てよ、ティナ・フランクス! そうか、彼女の言ったことも、ヒントだった。俺はそれに気付かず、全然別のことばかり考えていた……

「ワォ、ナイトさん! 今日も会えるなんて!」

 聞き覚えのある声に振り向くと、サラがとびきりの笑顔で俺の前に立っていた。君たちは俺に会うとどうしてそんな嬉しそうな顔をしてくれるんだ?

「やあ、こんばんはグッド・イヴニング、サラ。君のことを待ってたんだ」

「私のことを? どういうことですか?」

 声は不思議そうながらも、サラの表情は笑顔のままだ。全く、君たちの笑顔には癒やされるよ。

「本屋に行ったら、ルイーザに夕食に誘われたんだよ。君もここに来るから、一緒にどうかってね。それで、一足先にここに来て君を待ってた」

「そういうことでしたか。わざわざお迎えありがとうございます! でも、私がこっちの歩道から来るって、どうして判ったんですか? ホワイト・ホースは道の向こう側だから、あっちの歩道から来るかもしれないのに」

「ああ、それは、この前ここで一緒に食事したときの帰りに、君たちが店の前から道路を渡ったからさ。タールストリートの方から来るんだろう? あそこの交差点は幅が広くて渡りにくいからね。こっちの方が少し狭くてまだ渡りやすい」

すごいザッツ・グレイト! もうそんなに道を憶えたんですか? そうなんですよ。天気が悪い時は、カヴァード・マーケットの中を通ったりしますけどね。でも、ナイトさんも推理が得意なんですか? アランもいつもそうやって……」

「サラ! ナイトさん!」

 道の向こう側からルイーザの声が聞こえてきた。こちらに向かって手を上げている。俺たちも軽く手を上げ、車が来ないのを確認してから道路を渡る。

「アランは推理小説のファンらしいね」

「そうなんですよ。コナン・ドイルとか、クリスティーとか、チェスタートンとか、セイヤーズとか、デクスターとか、ラヴゼイとか。読むだけじゃなくて、シャーロック・ホームズの真似して、人の職業を当てたりしようとするんですよ。ほとんど当たらないんですけどね。当たらないよね?」

 ちょうど道を渡り終えて、サラがルイーザに話しかける。

「えっ、何が?」

「アランが、人の職業を当てようとするっていう話。私の隣の部屋に泊まってる人のことも、007に出てくるボンド・ガールみたいなスパイかもって言ってたじゃない」

 いや、007は名前しか聞いたことないけど、スパイっていうのはたぶん当たってるわ。なかなか言い勘してるじゃないか。

「そうそう、そんなわけないですよね。『ローマの休日』に出てくるアン王女みたいな人っていう方がまだ信じられますよ」

 そっちの方もタイトルくらいしか知らないな。どっちも名作映画だってことは知ってるが。それから3人でホワイト・ホースに入ったが、席が空いていなかった。飲み物を頼んで、立って飲みながら席が空くのを待つ。

「でも、ナイトさんはどうして道の向こう側にいたんですか?」

「ああ、あっちの劇場の塀にもたれてさっき買った本を読んでた」

「それならホワイト・ホースに入って、席に座って読めばよかったじゃないですか。私たちの席も取っていてもらえるし」

「一人で入ってテーブルを占領するのは気が引けるからね。俺はこう見えて結構気が弱いんだ」

「私たちを待ってるってバーマンに言えばいいんですよ。アランはいつもそうして席を取ってるんです。ナイトさんにも教えてあげればよかったですね」

「アランはどうして今日は来ないんだ?」

「別の友達と夕食に行きました。そんなにいつも一緒にいるわけじゃないんです。週に2、3回ですね」

 話しているうちに料理が来たが、ちょうどテーブルも空いた。旅行客の団体が来ていたらしく、三つくらいのテーブルが一度に空いた。道理で混んでいたはずだ。グラスと料理の皿を持ってテーブルに移る。ルイーザが鞄の中から紙の束を取り出す。この娘は見かけでは何ごともきっちりしていそうなタイプなのに、鞄の中は整理されていなくてぐしゃぐしゃだ。きっと部屋の中も同じだろう。逆に、サラの方が整理整頓ができるタイプかもしれない。見かけやしゃべり方では彼女の方が雑なタイプに見えるんだが。

「今日はとても難しい論文を見つけてきたんですよ。午後いっぱいずっと読んでたんですけど、論理展開が全然解らないんです。だから、ナイトさんやサラにも一緒に読んで欲しくて」

「ヘイ、現役の研究者でもない俺に、そんな過剰な期待をしないでくれよ」

「でも、ナイトさんが解らないって言ったり質問したりする時って、論点がはっきりしてますよね。それに説明がすごくお上手だと思うんですよ」

 サラがそう言って助け船を出す。冗談だろ、学生の時にはそんなこと言われたことがない。今まで俺がうまいって言われたのは、XOチャートの描き方だけだぜ。

「そうそう、そうなんです。ええとそれで、このランジュヴァン方程式を変形する過程で……」

「ちょっと待て。いや、君の話は聞くよ。聞くけど、俺の頼みも聞いてくれないか?」

「はい? 何でしょう?」

「明日の朝のトレーニングに付き合ってくれ」

「トレーニングですか」

「旅行中は運動不足になるんで、朝にちょっとしたトレーニングをしてるんだ。それで、ボールを投げる練習もしたいんだが、それを受ける相手が欲しい」

「でも、私たちフットボールなんてできませんよ」

「飛んできたボールをはたき落とすノック・オフだけでいいよ。それと球拾いピック・アップ

「えー、そんなのできるかなあ」

「大丈夫、ルーならできるよ。スポーツ得意だもんね」

 ルイーザの不安そうな声に対して、サラが励ましの言葉をかける。完全に他人事だな。だが、そうはいかん。

「サラ、君も一緒にやるんだよ」

「私が!? どうして?」

「やらないと非線形格子の話はもう聞かないぞ」

「えー、そんなぁ! 私、スポーツ全然ダメなんですよ!」

 やせっぽちスキニーのルイーザの方がスポーツが得意で、バランスのいいプロポーションのサラの方が苦手とは、これも意外。

「そんなに自信なさそうな声を出すなよ。たったの30分でいいんだ。明日の朝、7時30分から。場所はクライスト・チャーチ・メドウで君たちと最初に会った辺り。動きやすくて汚れてもいい服を着てくること。靴も同じ。できればタオルと水も持ってくること。他に質問は?」

「アランも連れて行く方がいいですか?」

 ルイーザが訊く。彼女はこの提案にかなり興味を持っているようだ。

お好きなようにアズ・ユー・ライク・イット。そうだ、上着はできれば長袖の方がいい。朝のうちは涼しいから長袖でも暑くないだろう」

「どうして長袖なんですか?」

「君たちの美しい腕が擦り傷だらけになってもいいのか? ボールが当たると結構痛いんだぞ。なるべく手以外には当てないようにするがな。他には?」

「明日は私の話聞いて下さいよっ!」

 サラが諦めの境地で声を絞り出す。たかが30分の朝の運動の約束をしただけで、どうしてそんなに情けない声を出すんだ。

「ああ、約束する。OK、じゃあ、ルイーザが持ってきた論文の検討を始めよう」

 とは言ったものの、ランジュヴァン方程式の変形なんてさっぱり憶えてないぞ。式を見ても思い出せるかどうか。それに明日はサラの話を聞く約束をしてしまったから、今夜は盗みには入れない。だが、今夜はどうせ無理だ。さっきの本を読んで、まだ情報が足りないのが解った。明日一日、情報を集め直す必要がある……

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