第4話 マルクス

 翌日、学校に行く。朝の目覚めは最高に悪かった。深夜まで考えを巡らせたが答えなど出る訳が無く、結局そのまま日の出を迎える結果となってしまった。


 こんな状態で美穂と顔を合わすのがなんだかわずらわしく感じて少し家を早く出ることにする。いつもは彼女と同じ電車に乗れるように時間を合わせ駅のホームに向かうが、今朝は逆に意識をしていつもより早い電車に乗って学校に向かうことにした。


「あれ、一条、今日は美穂と一緒じゃないの?」同じクラスの篠原しのはら昌子しょうこが声をかけてくる。彼女はクラスのムードメーカーでいつもクラスの雰囲気を盛り上げる存在である。美穂とも仲がよくいつもつるんで行動している。


「あ、ああ、たまにはそういう日もあるよ、なっ」誤魔化すように俺は返答する。毎朝、二人一緒に登校してくる俺達が別々にやって来るのが、よほど不思議なようで皆がジロジロと俺のほうを見てくる。その視線がかなり鬱陶うっとおしかったが、出来るだけ無視するようにする。


 始業直前の教室のドアが開いて美穂が登校してきた。その目にはうっすらと涙を貯めている様子であった。いつもの登校時間よりかなり遅めである。もしかすると俺の事を駅で待っていたのかもしれない。


 教室の中に俺の姿を確認して少し呼吸を止め、目を伏せたような仕草。彼女はおはようの挨拶もせずに自分の席に座った。


「ちょっと、あんたたち何かあったの?」美穂に聞くのを躊躇ったのか篠原は小さな声で改めて俺に質問してくる。


「いや、別に何もないよ…」俺は頬杖をついて教室の外に目をやった。校庭には体育の授業開始を待つ生徒達がいた。


「ふーん……」納得しかねる表情で彼女は髪をかき揚げた。その長い髪から女性用のシャンプーの良い香りがした。


 そして、チャイムが鳴り授業が始まった。数学、国語、英語、科学の教科が続く。


「な、なんて……、簡単な授業なんだ……」昨日までチンプンカンであった授業の内容が、小学生の習い事ように感じてくる。今の俺は大学の助教授だった頃の知識があるのだから当然と言えば当然のことであろう。


 大嫌いであった現代史の授業。だいたい嫌いな科目というのは担当する教師が嫌いという事と同期することが多い。もしも、もっと好印象な教師に教えられていればこの授業も楽しかったのかなと感じた。

 マルクス資本論について俺の嫌いな教師が雄弁を垂れ流している。その声を聞くのも嫌であった。それは今も変わらない。

彼が自慢げに話す内容は俺が暗記するほど散々学んできたことであった。

教師が説明するつたない内容に退屈で大きなアクビをしてしまう。


「おい!一条!退屈そうだな!気が弛んでいるぞ!マルクス資本論について、説明してみろ!」アクビを見て腹が立ったのか、少しキレ気味で教師は指示してくる。


「えーと……」俺は立ち上がり頭を掻きながら、マルクス資本論について語り始めた。


「マルクス経済学はカール・マルクスの主著『資本論』において展開された、諸カテゴリー及び方法論に依拠した体系である。マルクスは、アダム・スミス、デヴィッド・リカードらのいわゆるイギリス古典経済学の諸成果、殊にその労働価値説を批判的に継承し、余剰価値概念を確立するととも……」

 教師と同じクラスの生徒達は目を丸くしているようであった。


 俺は一通りの説明を終えると教師の顔を見た。


 教師の顔はなぜか、青ざめているようであった。


「えーと、先生は気分悪くなったので自習してください……」そう言い残すと彼は教室からイソイソと出ていった。


「うおー!すげぇ!」生徒達から歓声の声が上がる。


「お前どうしたんだ!本当に一条なのか?」クラスメイト達が声をかけてくる。俺にしてみれば初歩の初歩を話したつもりであったのだが、まあ、20年以上経済活を研究してきたのだから、高校生の授業後など朝飯前であった。


 俺は席に座ると、また頬杖をついた。校庭を走る体操服姿の女子生徒が目に写る。体育の授業でマラソンをやっているようだ。なんだかその光景を見る俺の感覚も変わってしまったような気がした。


 俺は今後の自分の身の置き方を思案すると急激に頭が痛くなってきた。

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