第2話 綾瀬 秀則

 彼の名前は綾瀬あやせ秀則ひでのり

42歳の中年の男性。仕事は大学の准教授、経済学を主に学生達に教えている。

愛妻の名前は綾瀬あやせ真理子まりこ。子供は一人、中学生の長女 綾瀬あやせ美穂みほ。彼らは彼が勤務する大学から電車で一駅ほどの場所に家を構え、三人家族で生活している。

 彼は妻と娘を溺愛しており、これまでに浮気なども一切したことの無い、よく言う堅物、悪く言えば全く面白味の無い男であった。


 彼が、酒を飲んで遅くなることは珍しく今まで学生達や職場の同僚などとの交流も最小限にしてきた。今回は、強引に勧誘してくる生徒がいて半ば強制的にこの飲み会に参加させられた形であった。

 飲んで帰ると真理子に告げた時、彼女が珍しい事があるものだと驚いたほどだ。帰りは車に気をつけて帰るように注意される。子供じゃあるまいしと彼は苦笑いした。


 その日は、彼が受け持っていた学内サークルの生徒たちの卒業祝いの飲み会であった。

 あまり酒に強いほうではなかったが、生徒達に勧められるままに数杯のビールを口にしてすでにほろ酔い気分であった。

 終電が終わる前に飲み会は終了したのだが、生徒達はさらに二次会に繰出すようであった。しかし彼は一次会のみで失礼することにした。

「先生もご一緒に如何ですか?」といつもよりセクシーな恰好をした女子学生が異常なほど体を密着させて誘ってくれる。どこかの安物のガールズバーでも勤めているのではないかと訝しげに思ったが、それが学生特有の社交辞令であることを彼でも流石に理解している。彼はその申し出を丁重に断り帰路につく事にする。


 学生達と別れて最寄りの駅まで徒歩にて移動する。酒のせいか足元が少しふらつく。それでも人の手を借りずに十分に一人で帰れる程度である。

 歩道に差し掛かり目の前の信号が赤になり立ち止まる。彼はネクタイを緩めてシャツのボタンを外す。そして軽くため息をついた。正直いうと若い学生達の中で会話する事を彼は得意とはしていない。どちらかというと、ゆっくり一人静かな場所で読書をするほうが彼にとっては快楽であった。


『しかし、久しぶりにアルコールを飲んだな・・・・・・。真理子と美穂に臭いって怒られないかな』言いながら、呼吸を吐いて匂いがしないか確認をしてみた。しかし自分でその程度が判る訳もなく結局は帰宅して彼女達の反応を見るしかなかった。

 

空を見上げると珍しく沢山の星が見えた。町の禍々しい光のせいか都会の空にはめったに星は見えない。なぜか少し得をしたような気がした。

『なにか良い事がある前兆かな』そう思いながらニヤリと笑った。


 その時突然、彼の体を車のヘッドライトが強烈に照らす。

照らされた眩しい光に彼は右手で目の辺りを覆った。次の瞬間、体に激しい衝撃と激痛が駆け抜ける。しかし、その痛みは途切れる事がなかった。彼に衝突した車は停まる事なく走りつづけた。彼の着用している衣服が走り続ける車の車体に絡まっている。

 彼の意識は少しのアルコールと苦痛の中に消えていった。



「どうしたの?具合でも悪くなったの・・・・・・凄い汗よ……」美穂の声で俺は現実に引き戻される。


 先程まで貧乏揺すりで揺れていた足が今は恐怖によって激しく揺れていた。その体に車に引きずられた傷が残っていないか目視で確認をする。着用している衣服には乱れも破損している部分もなかった。そしてもちろん先ほど感じた痛みも無くなっていた。


「そ、そんなことが……」俺は両手で頭を抱え強く目を瞑った。


「ここは、ここは、俺の家……、いや、俺達の家なのか・・・・・・」俺は小さな声で呟いた。


「な、なに、この家がどうかしたの?」美穂は不思議そうな顔をして俺の顔を覗き込んでいる。

 俺は無言のまま立ち上がり、仏壇の前に移動する。仏壇の中には見覚えのある顔があった。


「それが、私のお父さんの写真よ。まあまあ男前でしょ」美穂は少し目を細めて悲しそうな顔をした。


「これが美穂のお、お父さんか……」写真をもう一度凝視する。それは確かに見覚えのある。何度も鏡の前で見た俺の顔であった。さらに訳が解らなくなって頭の中が混乱する。


「あのさぁ……、今晩、お母さん泊まりで帰って来ないんだって……、遅くまでいてもいいよ。私、一人でいるのが怖いから……、なんなら泊まっていっても……なんてね」美穂はモジモジしながら赤い顔で囁いた。彼女は精一杯勇気を出して言葉を発した様子であった。

「ゴメン、ちょっと俺、気分が悪くなったんで帰るよ……。それと、嫁入り前の女の子が、男を簡単に家に入れては駄目だよ……」本当に吐き気を感じたので家に帰る事にした。


「えっ、何?どうしたの」彼女は俺の突然の変化に驚いた様子である。


「いや、さっきも言ったけど今日は気分が悪いから帰るよ……」言葉のまま、気分が悪いのでとにかく一人になりたかった。


「どうしたの?私、何か気に触る事を言った?悪かったなら謝るわ!」美穂は焦ったように懇願する。その目からは涙が溢れ出そうになっている。


「ゴメン、そういう訳ではないんだ。君のせいではないんだ。ただ・・・・・・、本当に気分が悪いんだ……」そう言い残して俺は彼女の家を飛び出した。

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