第8話

「本当は、泣いちゃいけなかったんだ。だから俺は、泣かないでいようと思った。父さんと母さんの前では、泣かないようにした。俺なんかが泣かなくても、代わりにたくさん、父さんと母さんが、泣いていたんだ」


きっと涼介には、思い出せないんだ。


そこで何が起こったのか。


涼介は世界を恨み、この世を憎んだ。


死んだ人間と、それに泣く人間と、自分を省みず、無視する輩とを。


そして呪った。


この世の全てを。


そんな自分をも含めた、この世界の全てを。


「だけどね、泣いてよかったんだよ。一緒になって悲しむことが、正解だったんだ。だけどその時の俺には、それが出来なかった。なんでか分からないけど」


今の涼介からは、想像が出来ない。


並んで腰を下ろすベンチに、そよ風が吹き抜ける。


日は随分と西に傾いていた。


誰かの笑い声と、子供の泣き声とがいり混じる。


人間の騒ぐ生なる音が、ゆるやかに耳の奥で響く。


「なぁ、やっぱり、俺たちは友達にならないか」


俺はストレートに、もう一度頼んでみようと思った。


「えぇ? どういうこと?」


涼介は笑う。


『友達』という言葉の意味が、俺にはまだ、よく分からなかった。


魔界の本には、人間と友達になればよいと書いてあった。


俺は契約書を取り出す。


そうすれば、簡単にサインすると。


「悪魔的には、これにサインしないと、友達になれないの?」


「分からない。だけど、そんな気がする」


きっと涼介は、悪魔になる。


そうなるはずだったのに、ならなかった、なれなかったんだ。


地獄に堕ち、修羅の道を歩むはずだった人間は、何かを犠牲にして、今を過ごしている。


たった一人で、孤独に暮らす涼介は、どうして悪魔にならなかったんだろう。


その魂を、売り渡してしまわなかったんだろう。


天使の祝福だなんて、そんな人間の前では、無意味な行為だ。


涼介は、悪魔のペンを手に取った。


「俺には、よく分からないな。だけど、獅子丸がそう言うなら……」


契約書を手にした涼介は、そこにペン先を近づける。


その時、急に足元の地面が盛り上がり、地の底が抜けた。

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