第6話 アルトとサラ
アルトは一人だ。
握った剣の柄はいやに滑る。
汗か、味方の血か。
多分両方。
震えて、掴めやしない。
捨て置いた。
震える手で地面を這う。
震える足で、屍を踏み越える。
情けなくとも、
それでも、たぶん、
アルトは生きたかった。
「逃げろ、ルシャナ!」
耳に飛び込む鋭い声には聞き覚えがあった。
「いやです! 隊長を置いていけません!」
「お前たちの撤退を確認しない限り、私が逃げられん! はやく行け!! ルシャナ、お前には部隊を率い、生きて帰る義務がある」
サラと、ルシャナだ。
そういえば、ロウが近くで見たと言っていた。
このキャンプで丁度休んでいた所だったのだろう。
なんというタイミングか。
皮肉が利きすぎてると、アルトは自嘲する。
サラは叫ぶ間にも、鎧一つない身軽な身体で血飛沫を量産していた。
元から髪も目も赤いのに、体中が染まって、怪我なのか、返り血なのかも判別出来ない。
「安心しろ! こんな所で死ぬつもりはない!! 私を生かしたいなら、撤退こそ近道だぞ!」
「くッ!! 隊長、どうかご無事で!」
ルシャナたちは後ろを警戒しながら速やかに撤退していく。
「みろ! 兵が離れたぞ、あの化け物を打ち取るチャンスだ!!」
「やってみろ!! 簡単にその栄誉はやらん!!」
孤立無援。
孤軍奮闘。
戦場など、
血など、
命の失われる様など、
見たくない。
居たくない。
はやく終われ。
逃げ出したい。
アルトはそう思うのに、
それでも、
それでも、輝く人はいる。
こんな場所で、輝く人がいる。
アルトの忌避する戦場で。
アルトの嫌いな命の奪い合いで。
アルトの苦手な凶器で。
ロウが、
サラが、ルシャナが、
他の誰かが、
「う、お゛ぉ゛おおおおおおおおおおお!!! かかって来いよおおお!」
血を浴びて、獰猛に叫ぶ。
「はっはあああー!!! いいね、やるね!!」
こんな戦場で笑う人がいる。
「一人たりとも通さんぞ!」
死に場所を見つけたと、全身に血を滾らせる者がいる。
世界が違う。
生きる場所が違う。
見ているものが違う。
太陽のように戦場を往く星々が、流星のごとく落ちていく。
倒れる命が、星の最後の輝きのようにアルトの目を焼いた。
涙腺はもうとっくに壊れてしまったようで、遠く高らかに哂うサラの姿をぼんやりと映すだけ。
ふらふらと立ち上がり、逃げる味方に突き飛ばされ、また地面に逆戻り。
上から落ちてきたのは死体だ。
喉を貫いた矢が致命傷。
下敷きになって抜け出そうともがいているうちに
「いい格好だな、戦女神さんよ。鬼神と言われようと、こうしてみるとただの女だな」
「しかも極上の、な。はは!」
背には容赦のない男の足が乗り、跪かされたサラの両腕は後ろに持ち上げられていた。
苦痛に歪んだサラの顔は、それでも戦場に居る限り一等美しい。
「私を打ち取る栄誉はお前のものか。少々下劣に見えるが、まあ、いいだろう。首を落とすがいい」
「ばーか、戦場の女を簡単に殺すわけねえだろ!!」
サラの眉がきゅっと持ち上がった。
少しは予想していたのかもしれない。
「戦場ってのは男たちの仕事場だ。そこにいる女なんて餌にしか見えねえよ!」
ぎゃははと下品な笑い声が、呻き声と断末魔に溢れた虐殺場に響き渡る。
サラは唇を引き結んだ。
悔しさに食いしばった歯の音がここまで聞こえてくるような気がした。
「殺さないのか……」
「殺すわけねぇだろ! さんざんっぱら好きに暴れてくれたんだ、お前だってこれくらいは覚悟の上だろう? 泣いて許しを請えよ! ああ、興奮するぜ!!」
鈍い音と共に頬を殴られても、サラは視線を逸らさなかった。
ぺっと吐き捨てる血の塊は口の中を切った証拠だったけれど、そんな小さな傷は今更で、とうにサラは血まみれだ。
「下種がッ!」
「いいね、いいね! 気の強い女程楽しめるものはない」
不快に舌なめずりをする音。
服に手を掛ける男。
周りは笑うだけで誰も倫理を説いたりはしない。
これが、戦場だった。
「やめろっ! 離せっ! クソ、死ぬ栄誉すら、与えられないのか。殺しても貰えないのか。女と言うものは、こんなにも、悔しいものかッ!」
アルトは震えていた膝を叩く。
腰ベルトに収納されている小さなナイフを、取りこぼしそうになりながら抜き取った。
手はこんな軽いナイフ一つ掴んでくれない。
だから、紐で凶器を縛り付けた。
サラの怨嗟の叫びを聞きながら。
アルトは涙を止めることを諦める。
「殺せッ! 私は! 自分は、! こんな事のためにっ! こんな場所で、嬲り者にされるために戦ってきたんじゃないッ!!! 踏みにじるな!」
小さな声で、自分を叱咤した。
行け、アルト。走れ、アルト。ここで動かなきゃ、男でも、女でもない。
死にたくはない。
怖いものばかりの戦場で、アルトはもう一人だった。
でも怖いことは全部、無理矢理に思考の外に追いやる。
だって、
サラが、呪われろと、空に呪詛を叫んでる。
憎しみと、悔しさと、無念を、獣のように叫んでいるから。
「殺す、殺す、殺す! 死ね、みんな、滅びろ! こんな世界、」
――助けが必要な友達が、目の前で泣いている。
それだけ。
空っぽの心に、それだけを詰め込んだ。
「――行かなきゃ」
息を吸う。
息を吐く。
自分のために叫んだ。
「うおおおおおおお!!!!!!!! どっけえええええ!!」
体当たり。
何かを刺して、誰かを殴って、その人の手を取る。
「立て、サラ! 手を、掴んで!」
走れ!
「走れっ!!!」
怒鳴り、
駆けた。
がむしゃらに。
心臓が悲鳴を上げても。
呼吸がままならなくても。
血が沸騰しても。
意識が途切れそうでも。
こんなにして、
ここまでして、
なぜ生きようと藻掻くのか。
いつの間にかサラが手を引いている。
転びそうになるアルトの体を必死に引っ張って、アルトに希望を叫ぶ。
「アルト、生きよう! 一緒に、帰ろう!!」
アルトは必死に頷いた。
帰りたい。
帰りたい場所があった。
神さま、と祈った。
敵軍の包囲網からは抜けたが、どこに敵の目があるかわからない。
火を熾すわけにもいかなかった。
疲れ果てた体は座った途端に鉛のように地面に沈み込む。
身に沁みる夜の寒さは身を寄せることで防いだ。
見張り番のつもりなのか、眠らないようにと、ぽつりとぽつりとサラが独り言のように話し出す。
アルトは夢うつつにそれを聞いていた。
男に肩を貸してくれる寛大な女性はサラくらいだろう。
そんな場違いなことを思った。
「アルト、私に夢はないと、昔言ったことがあっただろう?」
あれは少し嘘なんだ。
サラが秘密を話す少女のように微笑んだ。
「私はいつも、自分が不思議だった。剣が好きだ。戦うことが好きだ。あの何も考えられない程研ぎ澄まされていく感覚が好きだ。勝利こそ美酒。流す血こそ歓喜。……随分とおかしな娘だろう? 両親も気味悪がって近寄らなかった程だ。だが、私は幸いだった。剣を職に出来たんだからな。そして、同じ道を志す女性たちとも出会えた。――でも、彼女たちとすら、私は同化できなかった」
その時の衝撃は強かった。
やっと、気付いたのだ。
「――多分、私は男になりたかったんだろう」
女として剣士を、騎士を志した彼女らとはまったく違う。
奇妙な生き物だった。
けれど、それがサラだった。
「私は、女としての騎士でもなく、男と同じように活躍したいわけでもなく、――多分男そのものになりたかった」
からからとサラが笑った。
生まれる性を、間違えたのだと。
「……これが私の、叶うことのない、夢の話だ」
気持ち悪いだろう?
そうサラが聞くから、アルトはふるふると首を振った。
サラが、小さな声で「ありがとう」と笑う。
アルトはやっと口を開いた。
聞きたいことがある。
「僕にとって、戦場は酷いところだったよ。それでも、戦場に帰りたい?」
「……それでも、やっぱり、あそこが私の生きる場所だ」
「僕は、もう二度と戻りたくないと思ったよ」
「そう、か」
サラにはアルトを責められなかった。
それは以前から、ずっとサラが懸念していた事でもあった。
戦場を往くには、アルトは優しすぎるのだ。
「僕は、男だから、きっとまた戦場に立つ。嫌でも、あそこに立たされる」
淡々とアルトは嘆く。
そうだな、というにはこの友人があまりにも哀れで、サラはふと口にした。
「私たち、反対に生まれればよかったな」
「……そうかも。――そうだ、例えばサラが僕と入れ替わったらどうする?」
「どうする、とは?」
「だって、僕の体は貧弱で、君がなりたい男の体には程遠い」
荒唐無稽なアルトの夢物語。
それでも沈んでばかりだったアルトの瞳が珍しく輝いていたから、サラはそれが消えるのを惜しんで付き合ってやることにした。
「そんなの関係ない。努力をするよ。夢が叶うのなら、なんでもする。鍛えればいい。鍛えられなくてもいい。なんとでもする。欲しいものを手に入れた私はきっと無敵だ。戦は私の人生、勝利は私の糧、戦場で私は英雄になる」
ふふと、アルトは笑った。
「ねえ、サラ。一生のお願いがあるんだ」
この台詞を言うのは、三度目だと言ったら、サラは驚くだろうか。
「その体を、私にくれない?」
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