第10話 優しいラジオ、現実の電波、その結末は

 目の前に、古い青い標識が見えてきた。白い文字で、そこには東府の旧名が書かれている。意味的には同じだ。東の都。かつては最大の人口と、流通と、文化を誇っていた都市。

 今でも、物資は自然とこの地に集まってくる。だがそこには、人は集まらない。

 住んでいるのは、そこから飛び立つことができる人々だけである。すなわち、特権階級。

 旧財団であったり、代々の政治家だったり、地球に住むことをステイタスシンボルとして、わざと都市に広い土地を買い占めて、優雅な暮らしをしていた人々。その間に、列島の周辺都市の人口は、居住限度を越えていたこともあった。

 今となっては過去だ。

 人々は減っていくばかりだ。


「あ」


 ミルが不意に声を立てた。


「ねえちょっとおにーさん、ラジオのヴォリュームを上げてよ」

「ん?」


 私はそれでも言われるままに、ヴォリュームを上げる。するとそれまでぶつぶつ言っているだけだと思っていたラジオから、急に明るい音楽が流れ出した。


「お、なつかしーじゃん」

「でしょ?」


 ふんふんとミルはそれに合わせて鼻歌をうたう。確かに懐かしい曲だった。いつだったろう。もうずっと昔だ。

 ミドルハイスクールの頃に、よく聞いていた曲だった。

 ゆっくりとした、それでいて強いリズムを響かせながら、眠くなりそうな優しいメロディと言葉が乗っていた。

 音楽は一瞬にしてその時間を呼び起こす。その頃の空気、その頃のにおい、その頃の風景、そしてその頃の気持ち。

 振り向いてもらえなくてもいい、と思っていた女の子が、私にも確かに居た。居たのだ。

 後ろを振り返ることを知らず、それでいて遠い未来を見ることもできず、ただ毎日にひたすら立ち向かい、壁にぶつかり、もがいていた自分が、確かにいたのだ。


「ほら、ここから先が好きだったんだ」


 ミルは前の座席の背に腕を乗せ、身体を乗り出すようにして楽しそうにつぶやく。


「生き急いでも、何もしないよりいい、って」


 音の上には、確かにそんな言葉が乗っていた。

 そうかもしれない。

 どうしようもない、今のこの状況を、私も心の何処かで、何とかしたいと思っていたのかもしれない。

 ただその方法が、見つからないだけだ。見つからないから、何かと自分に理由をつけて、あきらめることだけを考えようとしてきた。……やがてそれが元から自分の考えだと思いこんでしまうまでに。

 だけど。


 その時、不意にノイズが飛び込んできた。


「え、何?」


 そう口にしたのは、ミルだった。それまで心地よさそうに音楽を聴いていた表情が、一瞬にしてこわばる。


『……管区 ……配置完了』


 ノイズの中に、堅い声が混じる。


『―――号道路の…… に…… OK…… の指令…… ど……』


 私は車を止めた。ラジオのヴォリュームを上げる。音楽は鳴り続けている。伸び上がれ、その手を叩け、と歌が鳴り響く。

 だがそのすき間に、がりがりというノイズと共に、声が聞こえてくる。二人は顔を見合わせた。

 私は旧式のラジオのチューナーを指で細かく回す。端から端まで回す。時々、耳を塞ぎたくなるような音が車内に響きわたる。お、と身を乗り出したナガサキが、声を上げた。


『―――解。了解。第28分局、現在目標物はどの位置なのか? 正確な視点を』

『東府開門より南西に20.458㎞。現在進行を停止中。どうぞ』


 私は窓の外をちら、と見た。だがそこには何も無かった。空はただひたすら青く、雲一つない。音もない。止めた車の外には、風の吹く音すらない。

 少し遠くで、風もないのに、蔓状の植物が、大きな葉を揺らせている。

 絡み合いながら、かつては鉄道だった小高い場所を埋め尽くしている。音もないと思った外で、その動く音だけが、微かにざわざわと耳に入ってくる。私は思わず自分の腕を抱え込んだ。


『関係報道機関に告ぐ。予定では30分以内に目標物は当地点に到着する。きっちりと諸君はその役目を全うするように』

「―――何を ……言ってるんだ?」


 ナガサキの声が、震えている。おい、と彼は私の肩を掴む。


「おにーさん、今あたし等、どこにいるの?」


 私はすぐに答えることができなかった。いや、答えはすぐに出せる。今がどの地点かは、少し前に見えた標識が答えてくれる。

 十五分前に見た標識は、旧名で書かれた東府まで30㎞、と示していた。

 私は思わず外に出た。そして大きく空をふり仰ぐ。やはり何もない。

 ―――いや、ある。

 この青い空の、ずっと、ずっと上。その昔、こんな風に車で移動することが日常茶飯事だった時代の名残。ナヴィゲーションシステム。地球の周囲を動く衛星がとらえる、対象物の正確な位置。

 に侵されない領域。―――それを左右できるのは。

 私は思わず、口を覆う。


 何なんだよ、一体。


「おにーさん、入んなよ」


 ミルは窓から顔を出して私に呼びかける。


「どうやら、あたし等を待ってるみたいだよ。今、言ってた」

「すごいねえ、オレ等、すごい有名人じゃん」


 くくく、とナガサキも笑う。そしてその手がゆっくりと上がる。

 手には、最初に出会った時の様に、マシンガンが握られている。彼はその銃口を、車内に戻った私の喉に突き立てる。その顔が、にやりと笑う。


「おにーさん、車出してよ」


 私はミルの方を見た。やはり同じ様に、手にはマシンガンが握られている。


「聞こえなかったの?」


 真っ赤な唇が、そう動いた。

 ―――私は言われるままに車を出した。


『……目標が移動を開始。局員は配置につけ』


 ノイズ混じりの声が、そう告げる。カンマ1㎞ごとに、その声は距離を告げていく。

 開け放した窓から、風が飛び込んでくる。私はできるだけ速度を上げないようにする。すると遅いよ、と後頭部に堅いものが押しつけられる。いいのか君ら、このままで!


『10.358㎞』


 機械的に、抑揚のない声が告げる。私は仕方なく、速度を上げる。


「何だって、君達……」


 待っているものが何だろうか知ってるというのに。


「黙って」


 ミルもまた、同じように私に銃を突きつける。私は黙った。黙るしかなかった。

 刻々と減っていく、距離を告げる声。ひんやりとした銃口。耳にぶんぶんと飛び込む、風の音。

 ひび割れたアスファルトの、前方には逃げ水。

 じんわりと額から、わきの下から、首筋から、汗が流れていくのがわかる。


『5.158㎞。弾倉装着』


 前方に分岐点。左に抜ければ、当局の検問からはひとまず逃げられる。私はハンドルを左に切ろうとした。

 だがその時、喉にぐい、と両側から銃が押しつけられる。駄目だ、と無言で二人は抗議する。


「あんたは、オレ達の言う通り、行けばいいんだ」


 それまでずっと友達のことを話していた時の口調とはうって変わった強さで彼はつぶやく。

 決して大きくもない。激しくもない。だがその声は、私に対して圧倒的なものだった。


『1.458㎞』


 緩やかな斜面を登りきった時だった。抑揚のない声が、そう告げた時、一気にそれは、私たちの視界に飛び込んできた。


「止めろ!」


 ナガサキは叫んだ。私は慌ててブレーキを踏んだ。斜面の天辺とも言える場所で、車はかろうじて止まった。


「出ろ」


 ナガサキはそう言うと、後部座席を開き、私を引きずり出した。その手つきは鮮やかなものだった。まるで、彼がずっと褒め称えていた、友人のように。

 待って、と私は突き飛ばされた不安定な姿勢のまま、閉じた扉に取りすがった。するとナガサキは銃の先で私のあごを強く突いた。私はバランスを崩して、今度こそ尻餅をつく。

 ナガサキはそこへぽん、と手を翻した。きらり、と小さなものが光り、私の曲げた足の間へと飛び込む。受精卵のケース!

 慌ててそれを手に取ると、にやり、とナガサキは笑った。

 おにーさん動かないで、とミルはつぶやくと、窓からマシンガンを何発か、私の周囲のアスファルトに打ち込んだ。ぴし、とかけらが腕に当たる感覚。

 危ない、と目を閉じた時に、ナガサキはアクセルを踏んでいた。

 ごぉ…… ん、と低い音が、地面から伝わって来た。


 なかなか立ち上がれない。

 衝撃のせいなのか、どこか打ち所が悪かったのか。足に力が入らない。ゆっくり。そう、ゆっくりだ。

 目を開けて。

 斜面の上から見た光景は。


 ―――こんなにどこから人がわいて来るんだ?


 私は駆けだしていた。

 東府開門のすぐそばには、道を挟んで、何十台、という数の東府管理当局からだろう、車が並んでいる。そして、その中に、それぞれの局員が。黒と白の制服を着て…


 何だって、こんなに、遠いんだろう? 


 もどかしく思いながら私はただ駆けていた。運動不足の身体がうとましい。呼吸が乱れる。慣れない地面を蹴りつけさせられる足は悲鳴を上げる。もつれる。転ぶ。ひざをすりむいたみたいだ。だがまた起きあがる。ざらざらしたアスファルトに、手のひらまでがすりむける。


 駄目だ。


 私は苦しい呼吸の合間につぶやいていた。


 お願いだ、彼らを、殺さないでくれ!


 ―――――――――――――――――――


 ―――足の力が抜けるのを感じた。

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