第2の月が見えるとき
三浦常春
私の友達
二〇二〇年二月二十七日。地球に「第二の月」が発見された。正確には、存在が発表された。
発表当時は、それはもう大騒ぎだったけれど、私はただ俯瞰してそれを見つめていた。
あの月は私の友達だ。
彼女との出会いは、つい三ヶ月ほど前に遡る。
夜、レポートの作成に疲れてお茶を買いに出た雪の降るあの日、私は青白く輝く月に出会った。大きく、明るい。頭上に浮かぶ三日月を掻き消すほどの存在感で、その月は――彼女は、丸い目をこちらに向けていた。
視線が交わった瞬間、私は身体の奥底が震えるような感覚に襲われた。恐怖でも畏怖でもない、それどころかひどく熱く猛るような高揚感が心臓を掻き鳴らす。
一時は疲れた脳が生み出した幻覚かと疑いもしたが、茶の入ったペットボトルに伸びる触腕を見て、それは現実から逃避しているに過ぎないと悟った。
「これ、欲しいの……?」
なけなしの唾液で喉を湿らせれば、あの月はゆっくりと大きな瞳を閉じる。肯定とも否定とも取れる、曖昧な返事だった。
「温かいのがいいなら買ってくるけど」
当時は十二月。たとえ月でも寒かろう。そう思っての提案だった。月は目を三日月型に歪めて笑った。確かににっこりと、嬉しそうに微笑んだのだ。
その日以降、あの月はたびたび私の前に姿を現すようになった。出会いの日と同様に空に浮かんでいたり電線からぶら下がっていたり。部屋の電灯の代わりになっていたこともあった。
友人や家族に見せびらかすほど私は非常識ではないけれど、いつぞやに流行った『ウォーリーを探せ』のごとく、うまく辺りに擬態して私を待っているのだから、用がある時は人の手を借りたくなる。
存外彼女は悪戯好きのようで、困っている私を見ては身体を揺らしていた。
この月は、私だけの友達だ。
そう思っていたのに、忌々しい二月二十七日。全世界に存在が明かされてしまった。
それからというもの、彼女は私の前に姿を現さなくなった。
■ ■
「『第二の月』が発見されてから一ヶ月。少しずつ『第二の月』の正体が明らかになってきました――」
私の前には現れないのに、ニュースには出演するんだ。
食卓に肘を置いてぶうたれていると、ナチュラルメイクを施した綺麗なお姉さんがスライドに合わせて神妙に語る。
「専門家によれば、『第二の月』は少しずつ地球に近付いており、軌道を離脱して広い宇宙に解き放たれるよりも、地球と衝突する可能性が高いとしています。しかし直径が小さいため被害の恐れは――」
「衝突どころか、私の前に現れてるんだよなぁ」
人々が『未知』として扱い、研究し、恐れている『第二の月』。それは私の友人だ。悪戯好きで、だけど少しだけ寂しがり屋な新しい友人。それを知っているだけで優越感を抱いてしまうのだから、自分はなんて単純なのだろうと辟易する。
それにしても、専門家とやらは『第二の月』が地球と衝突するかもしれないだなんてデマを流しているのか。専門家って、案外いい加減なんだ。
しかし息災ならばよかった。私はテレビを消して自室へと向かった。
空気の籠った部屋。起きたばかりの頃は特に気にならなかったが、リビングから戻るとどことなく甘い香りが鼻をつく。
新型コロナウィルスやらインフルエンザと病気のこともあるからと換気を始めれば、机の上に放置していたノートがぱらりと開いた。
――月か、地球か。
ミミズが這ったような文字が、ノートに刻まれていた。
「なぁに、これ」
この選択肢は? そう問い掛けると、どこからともなく触手が伸びて、私の指に絡まる。
「……久し振り。忙しかったみたいだね」
おずおずと肩越しに目が現れる。およそ一ヶ月ぶりに見る彼女は、どことなく緊張した面持ちをしていた。
しばらく会っていなかった友人と再び会うのって緊張するよね。そう触腕を摩ってやると、彼女は困ったような顔をして、私の指に触手を絡めた。
冷たい。けれど水っぽくない、不思議な感触。それは私の手をノートの上に運ぶと、二つの単語を撫でさせる。
「……もしかして、選べってこと?」
月か、地球か。
「どうして選ばなくちゃいけないの? 何の意味があるの?」
そう問えば、彼女はすっかり手慣れた様子で私のスマホを操作して、動画再生アプリを開く。そこに何かを入力すると、トンと画面を叩いた。
『8時だヨ!全員集合 盆回り』
今まさに流れている音楽には、そんなタイトルがつけられていた。その音楽と共に、私の脳内には一つの動画が蘇る。地球からドーム状の爆炎が上がる映像だ。
BGMと動画は、もともと異なる出典元なのだそうだが、いつからかコラージュされたのだという。そんな話を、どこかで聞いた。
「えーっと、月と地球、どっちかが爆発するってこと?」
触手がサムズアップをする。私の推理は当たっていたようだ。
未だ現実みのない選択肢に、私は精一杯唸る。これも彼女の悪戯であろう。悪戯というよりも、クイズか何かに近いかもしれない。私を困らせて楽しんでいるのだ。
「……地球がなくなったら、私も死んじゃうしなぁ」
折角介護の勉強をするべく進んだ大学なのに、道半ばで途絶えてしまうだなんて。私には勿体無く思えた。
「でも、月がなくなると夜が寂しくなるし……」
レポートは提出日の前日、夜通しで書く癖がついてしまっている。その合間に外へ出て自動販売機を訪ねるのが、私なりの息抜きだ。
私が住むアパートの周辺は街灯が少ないけれど、月明りのお蔭で小石や段差に躓かずに済む。
私にとって月は懐中電灯も同然なのだ。
「どっちも困るなぁ」
どちらもなくなっては困る。片や生存、片や情緒。基準は違えど、どちらも私にとって欠けてはならない存在だ。
そう呟くと、彼女はゆっくりと目を閉じた。
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