幸せになる薬
長月瓦礫
幸せになる薬
白い煙がゆらりと立ち上る。
皐月の細い指に挟まれているのは、タバコだった。
ゆっくりと息を吐く。
誰にも邪魔されない、ここで過ごす時間が唯一の楽しみだった。
ぼろきれ同然のカーテンは穏やかな風に揺れ、部屋に冷たい空気が流れ込む。
静かで穏やかな空気が心地よかった。
家に帰れば、親からは暴言を吐かれ、殴られ、蹴られるだけだ。
顔も見たくないが、学生の彼女が頼れるのは彼らだけだった。
学校側も彼女の家庭がどうにもならないと分かってからは、何も干渉してこない。
彼女の名前だけが、一人で歩いている。
どこにも居場所がない。
だから、国道沿いにある廃墟でひとり、タバコを吸っていた。
ボロボロの畳、割れた窓、ひび割れた壁、ありとあらゆる家具がその役割と果たせていない。何だか自分と似ているようで、愛着が湧く。
親の姿から影響を受けたからか、自分も同じように白い筒紙を咥えていた。
親からこっそりタバコを盗んでは、この廃墟で時間を潰す毎日だ。
お気に入りのメーカーは違っていても、親と子は似るものらしい。
皐月は新しく発売された、幻煙というものをこっそり入手していた。
もちろん、仕入れ先は親のカバンだ。
これを吸えば、誰もが幸せになるとメーカーはうたっていた。
誇大広告であることにはまちがいないのだろうけど、試してみたかった。
不幸も不幸、どん底にいる自分に何を見せてくれるのだろうか。
淡い期待とともに、皐月は幻煙のパッケージの封を切る。
ピンク色できらきらと輝いており、タバコのそれには見えなかった。
一本取り出し、ライターで火をつける。
先端が赤く光り、細い煙が立ち上る。
幻煙を加え、ゆっくりと味わう。
甘さと苦さが加わった、何とも言えない味が口の中に広がる。
悪くないと思いながら、おもむろに紫煙を吐き出した。
吐き出された煙の向こうに、綺麗に彩られたスイーツが並んでいた。
宝石のように輝くフルーツや、今にも溶けそうな生クリームで飾られたケーキやタルトが舞い踊り、見ているだけでよだれが垂れてくる。
親と一緒にケーキを食べたのは、いつだったっけ。
遠い記憶を探っているうちに、スイーツは消え去っていた。
一瞬でも、温かい気持ちにはなれた。
誰でも幸せになる。か。
あの広告もあながち、嘘ではないのかもしれない。
次は何を見せてくれるのだろう。
そう思いながら、また煙を吐き出す。
次に現れたのは、見知らぬ男だった。
髪は猫の毛みたいな薄く、柔らかそうだった。
小魚のような細い目で、彼女をいとおしそうに見つめている。
「うっわ、マジかあ! こんなセロリみたい奴が王子様気取ってんのかよ!」
彼女はすっとんきょうな声を上げた。わざとらしいにも程がある。
男の顔は見たことがなかったが、流行りの芸能人か何かに違いない。
彼女のタイプでも何でもない、ただのかっこつけた男だった。
謎のイケメンもどきも、ついには消えてしまった。
不思議と、悪い思いはしなかった。
「おもしれーもん、見せてくれるじゃん」
最後の一息はいつもより、ゆっくりと吐いた。
さて、次は何が見れるかな。
期待もそこそこに、吐き出した煙の向こう側を見つめる。
そこには、幸せな家族があった。
両親から愛され、真面目に学校へ通う自分の姿がそこにはあった。
温かな家庭がそこにはあった。
短く舌打ちをする。
これは訪れることのなかった、未来の話だ。
これは至ることのなかった、過去の話だ。
「ざっけんじゃねえ!」
彼女はそこにあったテーブルを蹴飛ばした。
テーブルは音を立てて、倒れた。
灰皿もひっくり返り、吸い殻が散らばった。
「何が幸せになれるだ! こんなの……ただの幻じゃねえか!」
皐月が叫んだと同時に、カーテンから火の手が上がった。
先ほど飛び散った吸い殻から、熱が伝わったのだろう。
炎は広がっていき、廃墟の床を焦がしていく。
不思議と、火を消す気にはならなかった。
ゆらめきながら、次々と燃え移る赤い炎に見入っていた。
赤く燃え上がる炎の中、彼女は一人たたずんでいた。
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