第67話 30年前の学生寮のはなし。

 いやー、平成への切り替わりを寮の「娯楽室」で見た記憶はまだ残っているよ……

 そういう時代ざんす。


 なんだが。

 先日わが母校の自治寮は今どーなってるかなー、と思って探してみたら。

 基本的に変わってねえやんけーーーーーっ!

 まだ全寮連に属している様な活動してるんかい!

 まあいいけどさー……


 というのもですな。

 ワタシは某静岡大学の寮に四年間住み続けた奴なんですが(笑)。

 フツーは四年は無理っす(笑)。色んな意味で耐えられずに出てく(笑)。

 その「無理」を「安い」でスルーしてきたワシでした。いや、だって当時はネット無い時代だったから二食付きで12000円/月だったんですぜ? 食事は自炊する、と言えば光熱費だけで5~6000円。

 20畳に基本四人。ただし実際は2~3人。ベッドは畳。その下に引き出しがあるタイプ。

 女子寮はだいたいその部屋が12部屋ってとこかな。それが5階建て。


 ワタシは一、三、四、五階に住んだことがあるんだが、まあ一番住みよかったのは三階かなー。四階も悪くはなかった。五階は単に登るのに死んだ。見晴らしは良かったねー。山の上だったから夜景が綺麗だったのさ。

 二階に屋上物干し場があるんだな。三階はそこに割と近い。そんでトイレ兼流し場兼洗濯機のある場所が「まだまし」。……ま、今考えるとかなり厳しい。今はもう無理。絶対改装してるよな!? 乾燥機がもう入ってるらしいくらいだから!

 廊下の突き当たりに流しと適当なテーブルが調理台、そこにアサガオコンロが二台。一、二階はフツーのコンロだったりしたけど、ワタシはアサガオコンロ好きだったなー。火力が凄かった。ここでは昼メシや日曜の食事作ったり、……まあワタシはあまり勧められないダイエットしていたのでよく使ってた。

 ちなみに寮の食事は「まずい」とは言われてたけど、ワタシ的には格別さほどそこまでは思わなかった。少なくとも自宅では食えなかったモノを食える様になったし。カレーはやっぱり美味しかったし。


 四人部屋の真ん中に仕切りがあって、二人二人で分かれる。三年生以上が居る場合は三人部屋で半面使えたりして(笑)。ベッドのとこに一応カーテンがついていて、そのレールに洗濯物干すことが多かった。ただこのベッドの位置を皆結構動かして、こたつテーブルが置ける程度のスペースを作っていることが多かった。

 ちなみにこの我々の居た時期によーやく「こたつの電気を入れてもいい」「テレビを各階一台入れる」「週一の風呂休みは無し」ということになったんだよな。裏返せば……

 夏は冷房もへったくれもなし、冬はスチームが入った。ただし静岡「市」というのは、もう冬、風も吹かない! 滅茶苦茶暖かい土地だったんだよな! 浜松より体感温度はぬくぬくだよ!

 あとは机と本棚が備えつけ。無論ワタシはそれで入りきらなかったので…… 押し入れにだな。

 大風呂は好きだった。年に一、二度清掃当番が来る程度。何と言っても人数が多かったから。


 さてそういう生活と同時に「自治寮」だったので、それぞれ一応役割があった。

 「~部」という名で庶務とか色々あったんだけど。

 ……果たして本当にそれ必要なんか? と今になっては思うものも多かった。というのも、そもそもそれ、「皆で何か期毎にやる」ための委員会みたいなものだし。

 新歓行事、寮祭、寮生大会という基本的なでかいものがあるとして、その下に「各階会議」ってのがあったんだな。

 階ごとにこの代表の委員が出るんだけど、これやると滅茶苦茶時間食う。ということでワタシは無論さっくり逃げました。責任感ねえので。

 この各階委員になると、毎月の様に会議室でその代表だけが集まる会議があるんだな。その前に毎週何かしらの各階集合することがあってな。

 この場合女子寮だけで話合うこともあるし、男子寮のペア組んでるとこと一緒に活動することがあった。

 寮は一応門限はあったけど、まあ一応鍵もってたのでバイトで遅くなって~ライヴで遅くなって~というのも普通に入れた。男子が女子寮に十時までは出入り自由だったんだぜおい。だからって面倒があった訳でなくてな。単に作業とかで九時半くらいまでになることも多かった訳だ。

 その後は共通の場所である食堂で作業してでな。まあカップルになる奴もいて、その後の時間を食堂に居ることもあったり。同室の子がやっぱり彼氏作って、冬に編み物しているとかコイバナしてたりとかあったけど、……わかんねー世界だった……

 で、正直一年が一番働かさせれる。二年も。三年になってしまえばもう仕事は下に任せられる、部屋は広く使える、同じ学年は少ない、先輩風~と過ごしやすくなる、職務は勉強やバイトの名目でさぼれる…… ので、ワタシはひたすら三年になるのを待ってなおかつその他の仕事も実務的+寮生大会の会場に居なくていい役目をやってスルーしまくっていたざんすよ。

 だってもう、三年や四年の寮生大会は帰省だの自動車学校だの旅行だので参加してなかった訳だし。そもそも話し合っていたことも「……本当に話合うこと必要かあ?」と今になって思えば、いや当時だって「平和運動?」とか思ってたぜ。

 今でもレジュメにそれ書いてあるんかなー。

 五階に住んでた時、資料室があったのさ。で、ワタシが生まれた頃が最初の年だったらしいんだけど、当時のレジュメ見たことがあるんだわ。……いやー1967年、まだまだ学生運動華やかりし頃だねえ(笑)。男子寮には消えない「斗争」とかの落書きとかありましたよー当時も。

 そんでやっぱり共産党系の先輩がいてだなー、「え、今どきこれかい?」とバブル期にうたごえ的なことやってた訳だよ。そらまあ、危険と感じるか、しらーっとスルーするしかないだろ。

 まあ危険から守られていた点としては、当時「原理研」とかあってな、ぼっちな下宿生とか狙われた訳だ。そういうのに関しては、寮生はもうがんがんに「危険だからこれには手を出すな!」を叩き込まれていたから安全だった。「新聞部」らしきものが二つあって、片方がそうだとか。あと当時あった法経短期大学が革マルの巣だったとか、色々ありましてなー。立て看板も毎度並べられてましたよ。キャンパスに。

 ただし自分達が寮生大会とかの時の食堂に置く立て看もある程度そういう雰囲気もあったんだがなー。その辺りは「バイトの代わりバイトの代わり」と内心つぶやきながら文字塗りとかしてましたよー。

 ちなみに寮生大会をともかく庶務部で「外の受付」するとか、「選挙管理委員会」でやっぱり外で開票作業することで逃げたのは、……食堂にだな、数百人集まるんだぞ……自分の椅子持ってきて、みっしり。

 空気悪い!

 しかも始まるのが夜の八時。終わるのが朝の五時!

 その後打ち上げするという強者も居たわー。あかん無理。と、一年の時に早々に思ってだな、ともかく逃げる方法を探したね。年に二回。ワタシ全部で八回あったはずなんだけど、真面目に「中」に居たのは二回だけだった気がするぞ。

 そうでもしないとワタシの様な奴はやっていけない。


 利点としては、まあ放っておいても友人がいたということかなー。単発バイトのクチもすぐに見つかったし。

 一人になるのは音楽聴いてりゃ勝手にできたし、学内に寮があったので、図書館に籠もるという手もあったし。

 まあその一方で、自分の無神経さが人を傷つけたよな、ということは多々あったんだと…… 今になれば思うんだがな。「本当にあの時はすみません!」と言いたいひともいますわー。


 ダイエットの項で書いた様に、気付かずおかしくなっていたのもやっぱり集団生活のストレスもあったのかもしれない。

 周囲が「普通の体型」ばかりだったから、妙に「え? これじゃあかんの?」がじくじく感じられる様になってたのかもだし。

 だけどもし下宿だったとしても、当時の下宿は割と寮と近い感じのバストイレ共同の、住んでる同士仲がいいとかそういう場所だったんだよな。これは一歩間違えるとワタシの様な奴はまじで孤立する。強制的に輪に入らされたというのはまあ四年間を過ごすにはよかったのだろうとは思うざんす。


 しかし今だとどうなんだろなー。

 イマドキの子達、あの環境、耐えられるんだろーか?


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