第15話 ダイエットという「作業」をしてはいけない類い。
今回は2016年に書いた奴の再掲。
長いし重いぞー(笑)。
***
前提。
物心ついた時には既に「身体が大きく、田舎の子供の遊びについていけない」子だった。
+
家がご町内の端っこにあった。
+
ウチはボロなのだが壁一面に本棚があって、幼稚園の時からマンガ雑誌を定期的に買ってくれる親だった。及び「そういう」親の遺伝子。
結果。
インドア派の誕生間違いなし。
+
母親が割と「おやつは大事」と作ってくれる方だった。そしてその中には揚げドーナツとか結構頻繁だった……
更に結果。
……小学校三年だか四年の時に、昼休みに「肥満児体操」なるものに参加をさせられた……
いやいいんですよ間違いはない。物理的にはな。
ただ明らかにこれはなあ。さらしものというか何というか。
もっとも当時はデブだからと言って、それだけでいじめられるとかそういうことはなかった。
いじめられたことはあった。小学校三年のとき。
だがそれは「泣けばなんとかなる」方法で何か切り抜け、その後暴力的反撃に移った(笑)。
何せ身体はでかかったんで。まあ当時ですから。70年代ですから。本気で怒ってると判ればいじめ「られる」方にはならない。
ただ当時からコミュニケーションに関しては微妙におかしかったようで、「グループ」の中に入ることがどうしてもできなかった。
はじかれていた、という訳ではなく、顔を突っ込んでも入りきれない。これは今でも共通しているんで、時々思い出すだ。
一方でいじめたこともあった。というか、これに関するワタシの攻撃は物理的にというより「無視」系だった。ちなみに母親との高校進学時の対決もそれだった。母親が折れたが。
ともかくものすごく生理的に嫌になる子があるとする。触りたくない。距離おきたい。机を離す。喋らない。その他もろもろ。
いやそれ病的やん、と今なら言える。
いじめとしては方法がおかしい。無論相手は辛かったと思うのだが、自分自身が被害者の様な感じ方してるやん、と。
まあ当時は当時なので(笑)、担任によって和解となった。正直途中からその態度を取るのが疲れていた。ただ和解のタイミングがつかめなかった。ちなみにその子とはその後は普通に話せていた。わからん。
そんなどっかねじれた70年代小学生が、初めてダイエットをしたのは5年生だ。
いわゆる「80カロリー・20点数法」という奴だ。家庭雑誌のふろくの表を頼りに、80キロカロリーのものを一日20点、4分類された食品群に点数割り当てして一日食べるという。
これを推奨したのは母親だった。
毎日毎日表とにらめっこしつつ、給食のパン―――当時は小型3枚だったのだけど―――を食事に1枚食べて、2枚を残して帰り、それをおやつにする、という生活。
まあ確かにてきめんに効果は出て、どどんと7キロくらい落ちた。
するとある日母親が「もういいんじゃない?」と言い、ワタシは元の生活に戻した。
無論リバウンドする。
当然だ。彼女は普段の生活がそのまま反映するということを知ってたのか。果たして。
こたつにもぐって借りてきた児童向け名作文学とかSFを読みながらばりばりとカールのチーズ味を一袋空けてしまうような生活をまた繰り返して大丈夫と思ってたんだろーか。
そしてまた、当時既に生理が来て2年がとこ経ってた(早熟だったんだよー)小学生にダイエットさせることをどう思ってたのか。
さて。
判らないが、ともかくそこからワタシは大学2年まで、だいたい160センチ、70キロくらいの体型を延々続けることとなる。
さてこの時に、母親が「ダイエットなんかしなくてもあんたは可愛いよ」とか嘘でも言ってたらどうだろうか?
やめた時にざくっと元の生活に戻してしまうことに注意を払っていたら?
残念ながら、それは二十年くらい後に「こうだったら!」とうめく様に感じたことだったのだが、当時は何も感じなかった。
中学に入ると、それまで以上に田舎な地域の連中が入ってきて、放課後全校運動で(週二~三回あったのだ。終わると運動部はそのまま部活へ行く)サーキットについて行けず、校外ランニングで帰り着く頃には、既に皆解散しているということになる。
そして当時の母校は、ブラス以外にマトモな文化部はなかった。これが放っておいて帰ったらヒッキーしてたいの、の自分には地獄だった。
科学部と書道部(これは記憶違いで美術だったらしい)というのはあったのだが、どっちも成績が強烈に悪いとか登校拒否の生徒の所属する場所だった。
―――少なくともそう生徒達は思っていた。つまりそこに所属することは恥だ、という。
本当に、美術部(記憶違い)か文芸部だけでもあれば、としみじみ思ったものだ。
まあそれこそ「生徒をくたくたにさせて帰宅後に下手なこと考えさせない」という趣旨には反していたのたろう。特に田舎でしたので。
6年生で「こっそりグレて」いたワタシは体育会系文化部であるブラスだったので、かなり疲れ果てた。
下手に皆勤賞とかとるのが名誉だと考えていたせいもある。つか、休むと遅れるんじゃねーか、という強迫観念もあったけど。休むという発想は無かった。
そして悲しいかな、先輩に「一つ置いた学年」が居なかった。
1年にの対する3年、というやつである。2年にいびられてもかばってくれる存在。それが無かった。
二年間付き合った先輩達は、ワタシに宿題手伝わせる位の―――だった。
でも普通の生徒で、ワタシの様な頭でっかちの鈍感ではなかったから、こっちが内心馬鹿にしていたのも判ったのだろう。時には体罰入りでいびられたこと。
この反動で、この先輩が居なくなった後の後輩には優しく~と接していたら、今度はつけあがられてしまった。
打楽器だったのだが、このパートの花形は、当時の我々の中ではスネアとティンパニである。スネアは同期が受け継ぐのが決まっていた。そしてティンパニは、新入りがすることになった。ワタシは鍵盤系打楽器から動けなかった。すごく動きたかったのだが、何故か。人数がいつも足りないパートだったから、下手に楽譜が読めたのが仇になった。一年から皆レギュラーにならざるを得なかったから、今更三年で変えることもできなかったらしい。
そんなこともあって、中学の記憶はひたすら鬱々としていたことばかりだった。それこそ中二の頃(笑)には本気でしんどかったので、当時の担任に何度か愚痴を聞いてもらっていた。小学校高学年の時に一度は止まったアムカやら飲酒も当時はやっていた。ともかく早く帰りたい人種にしてみれば、土曜日の午後も日曜日の午前も部活だなんて、地獄だ。鬱々感はこの時期本当に酷かった。
だが面白いことに、親は知らなかったらしい。マジで。当時兄が高校のブラスで忙しかったというのが一番の理由だったろうが、それにしてもなあ、というのはまた後に思うことだった。
まあそんなところから高校へ行くと、突然楽になった。
新設校だったのだ。
嬉しいことに先輩は居ない。部活は少なかったが、体裁を保つ程度の文化部は存在した。という訳で、翌年美術部ができるまでは文芸部に居た。無論殆ど帰宅部である。
勉強さえしていれば文句は言われなかった。何って楽だったろう!
しかも市内のあちこちからやってくる生徒達は、何とワタシより体育の成績が悪いのも居た!
家庭科で苦手だった被服(中学では五段階の2だったのだ!)も、ミシンが無い(笑)という事情から無かった。10段階8~9で推移してましたよ。
そして勉強は嫌いではなく。
ので、他の学校の連中からしてみればどうか知らないが、ワタシはようやく息がつけた。
家では兄が就職で東京に出ていってしまったので、こっちも息をつけた。
彼が、というか、彼のサポートをしまくり、こっちを放っておく母親がこっちを向いてくれた、ということがあっただろう。高校を決める時はもめたが、この三年間は穏やかだった。
ただ二点だけ、当時の彼女に怒りが湧いたのは、雨の日に楽しくわざと濡れて帰った時に、まず「みっともない」が出たこと。大学受験の結果を知らせた時の冷静すぎる態度。
後者はいい。彼女の死後、日記代わりの家計簿に記述があった(あっただけだが)から、彼女なりに嬉しいと思ったのだろう。だが濡れて帰った場合の「みっともない」は解せない。今でも。
まず風邪とか身体の心配をしてくれ、と思ったものだった。
で、大学である。
寮生活の中、自己愛真っ盛りなワタシはちと寮生の一人を苦しめてしまったことがある。こっちも自家中毒していたということもあるのだが、それは言い訳にならない。
いずれにせよ、楽しい(ことにしている)寮生活が、結構なストレスになっていたのかもしれない。ともかく毎日同年代、同程度の頭の連中と付き合うのだ。しかも個室ではない。
いやまだ寮はいいだろう。基本ビンボ人が多く、経済感覚が近い連中が大半だった。だがクラスはそうではなかった。高校もそうだったのだが、妙に女子率が高く、そしてもの凄く「真っ当」だった。
一般教養までは良かったのだが、専門になってつまづいた。彼女達は教員になりたい人々が大半で、ワタシはそうではなかった。感覚のずれ。
そんな中で、何かいきなりダイエットに「はまって」しまったのだ。
当初はよかったのだ。
方法は昔とそう変わらない、20点法1600カロリーのものだった。
ただここで、ストッパーが無く、エスカレートしてしまった。
大学に入って、バイトもやって、図書館が敷地内にあって、時間があって、凝り性が爆発した。
関する本を読みまくり、毎日やたら広いキャンパスの中にある野球場でジョギングし、寮の食事はやめて自炊した。寮の食事は栄養が良すぎたのだ。
だがしかし。
朝昼晩全部で1600カロリー、というのがくせ者だった。
これが頭の中で「1600カロリーに収めればいいんだよね」に変換されてしまった。
そして朝ともかく腹が減る。腹が減るから早く起きる。
ただし早く起きるのは、「自分の時間」が欲しかったから、とかも言える。
寮生活で誰の声もしないのは早朝だけだった。だからその時間にのんびり一人だけの食事を――― しだすと、どんどんその量が増えていった。
ノートに毎日点数とかつけていたのだが、いつのまにか、朝だけで1000カロリーとかになってしまうことが多くなった。「朝だからいいよね」という欺瞞もあった。
昼は弁当を作っていったが、内容が今考えるとひどい。野菜の煮物とかだが、根菜よりは葉物中心のそれだ。しかも「それだけ」だ。
夜もそう変わらない。よく作っていたのは、わかめとえのきの炒め物だ。
これはマジでノンカロリーのかたまりだ。そして足りなければ甘味料を使ったコーヒー寒天である。
これでおかしくならないほうがおかしい。
無論体重は落ちた。それこそ72キロから、56キロ、11号、時には9号が入ったことすらある。
だが減らすのはともかく、キープするのがもの凄く難しかった。というか、判らなかった。
そしてその頃から、異常な行動が出てきた。「盗食」である。
当時寮の行動単位は「階」だった。女子は3~4人×12~3部屋。その一階ごとに冷蔵庫が大小一つずつあり、小さい方にジャム等が入っていた。
さて「何も無い」時に、このジャムを盗み食うことが平気になってしまった。大さじ1が1点だった、ということがあり、この1点だけね、と他人のものなのに平気で食べてしまうのだ。
この時に罪悪感は無い。
あるとしたら、「ああ食ってしまった、後で調整しなくちゃ」だ。
この時点で認知がゆがみまくっている。
これが階ごとの問題で会議に出されたとしても、「誰の仕業でしょうねえ」と平気な顔ができる。自分のやったことだと判っていてもだ。
また認知のゆがみとして、四年の時の教育実習。
当時何ヶ月も生理が止まっていた。
気楽でいいわー、と思っていた。面倒なだけだったから。
急激な体脂肪率の減少で、生理は止まったのだと思う。動きまくって食べないという生活なのだからそうなるのも当然だ。
さて実習は地元だった。
となると、実家に戻らないといけない。
6週間。小学校4週間、中学2週間。地獄。
絶対に生理が無いのはばれる。そこで思ったのは「医者行って生理来るようにしてもらおう」だった。ホルモン剤打ってもらって、母親の目をごまかした。ごまかさなくてはならない、と思っていたのだ。
寮に戻ったら、また止まった。そして平気な顔で日々を過ごし、教員採用試験に落ち、すぐに就職活動をして、まあ何とか取ってもらって―――
自動車学校の合宿に行ったら、ぷつんと切れた。
このストレスは凄すぎた。ここまで罵倒されまくりなことはなかった。
教官は厳しく怖かった(当然だが)。
そしてすくみ上がった。上手く動けない。だがしかし、合宿免許、20日以内に取らないと料金がかさむ。
それに、何と言っても、最初の日に人間関係につまづいたということがある。
まだ喫煙者が大手を振っていた時代だ。
早めに寝た後、四人部屋の残りの三人が「あの子イタいよねー」「自分で**と呼んでくれとかさー」「煙草にも嫌味だしー」的な言葉が聞こえてきた。
恐怖が襲ってきた。
翌日まず、「どうしても煙草は喉に辛い」と部屋を変えてもらった。いや実際嫌なのだが、喉ではない。
ともかく空気という共有物を汚すことを平気でする人が当時も今も嫌だ。
これは後に友人関係の中でも問題がおきたが、嫌なものは嫌だった。ということで一人部屋にしてもらった。
だがそうすると、暇になった。
この暇がいけなかった。車に乗りたくて行った場所でもない(これもおかしいが)歩いて行けるところがショッピングセンター(今とは規模が違う)しかなかった。―――そこでつい、だ。
食欲が爆発した。
朝のパンを2枚その場で食べて2枚持っていって部屋で食べるとか。
ショッピングセンターでともかく噛みごたえのあるものが欲しくて仕方がなくなるとか。
怖いのは、砂糖掛けナッツを一日でばりばり夜に食いまくってしまえたこと。
スナック菓子は言うまでもなし。その買い物の帰りに既に袋を開いて食べて歩いてたり。
それまでの反動が一気にやってきた。それでいて、吐くことも無い。ただただどんどん溜まって行くのが判るのに、止められない。
そして根性で19日で帰還したが――― それ以来車に乗っていない。
免許にしても、学科は三度目でようやく受かったくらいだ。もともとどうでもよかったのだが、これで本当に嫌になってしまったらしい。
さて戻ってから。
就職した時、既に体型が面接時と相当変わっていた。当時の課長に呆れられたものだった。
そしてそこでも過食は止まらなかった。仕事が本当に合わなかったというストレスが一番だった。
劣等感が自動車学校で思い切りかき立てられた上に、仕事で「できない奴」のレッテルが貼られ、抜け出す術もなかった。
まあ今考えれば当然だ。企業に「正社員で就職」して、新人期間にどうしてもその会社のやり方に納得がいかなかったのだから。
当時も今も変わらないのがこの「納得」という概念で、どうしても納得できない営業トークを口にするのは苦痛でしかなかった。
甘いのだが、どうしようもなかった。
で、辞めて家に戻った。そして小学校講師を半年と少しやって、完全にメンタルがぶっこわれた。
もっともこの時は、辞めたくてメンタルぶっ壊れを演出したかもしれない、とも思っている。
自分の時間が全く取れないことも、子供が好きではないことも、それでいて資格を持っていることの矛盾があるんだが、「辞めたい」と思ってもそう簡単に辞めさせてもらえる雰囲気ではなかった。
何より、母親に見せつけたかったのだろう。「したいことなんて物書きしかない」ということを。
さすがに彼女はショックを受けていた。
が、仕方ない。本当にしたいことなんて、小説書きしかなかったのだから。
それができてようやく息がつけていた。できない様な時間の仕事は無理だ、と。
それから派遣で工場、そのつながりで出だしたばかりのパソを叩く仕事にありつけた。7~8年くらいで、メンタルを再び病んだ。
というか、元々病んでいたことに気付いた、というべきか。
明らかに大学の時のダイエットは摂食障害だった。
ここからおかしくなってはいるが、下地はそれ以前にもあった。ちょこちょこと母親のことが出ているが、非常に強いこだわりをワタシは彼女に持っていた。
悲しいかな、残念なことに、それは彼女が事故死することで解消してしまったのだ。
人でなしだなあ、と思うのだが、仕方がない。ワタシは彼女に感謝はできるし、亡くなったことを天に怒りもした。
が、愛情を感じることと、悲しむことができなかった。
その感情が根本的に欠落しているのだ。
その理由を探して、遺した家計簿を漁ったり、父親に話を聞いてみると、自分とやはり似た、自己中心的な姿が浮かぶ。
今はメンタル医者と薬のおかげで安定した暮らしをしている。
母親が遺した預金で父親は安楽な老後を送り、ワタシもその手続き係ということで恩恵を受けている。
仕事がパートで済み、気ままに過ごせるのはそのおかげだ。冠婚葬祭を一手に引き受けなくてはならないのも仕事だと思えばいい。
つまり、今一人暮らしになって、いつよりも気持ちが落ち着いた暮らしができているのだ。
たださすがにこの歳になってくると、「きのう何食べた?」ではないが、死なないためにやせなくてはならない、というのが出てきた。
実際また増えていたのだ。食事時間がおかしい肉体労働なので、糖分とりすぎとか、色々重なり、一気にきた。
ダイエットは怖くてできなかったのだが、さすがに今回はしなくてはならない、と思い―――
意識のすり替えでもって、何とか少しずつ落としてはいる。すなわち、「体重計を見て記録する」ことを目的にする訳だ。「体重を落とす」ことを目的にしない。
そして甘い菓子や飲み物を摂るのを減らす理由には、「歯医者からの言葉」を持ってきた。これはこれで事実なのだ。
そうやって現在は、「目的としてのダイエット」をしないことで、何とか気持ちを保っている。
あれは絶対に「はまって」はいけないものなのだ。特にワタシの様なタイプと家族の傾向を持つ者は。
***
以下は現在。
そのあとそのパートを一度辞めて、だらだら一年家で竹細工してー、筋肉が落ちまくりー。
そのあと北海道をママチャリで回って、筋肉が復活ー♬
そしてパートで「人が足りない助けて~」が来たのでパートも復活。
ただそれで足の裏に痛みが来る! ので歩く関係の運動とかに無理はせず。
まあもうこれからは通勤10㎞をチャリで行けるんならええわ、ということに!
みんな自転車に乗ろうぜ……
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