第15話 「李老師」美しき中国茶の先生、教室の紳士

 そんな時、李老師は来日したのだ。美しすぎる中国茶の先生は、まるで絵に描いたように、豪華客船に乗って、横浜にやってくるという。


 ちなみに「老師」というのは、中国語では「先生」のことで、年をとっていなくてもこういうそうだ。

 「李老師」はまだ若い、女性である。老師、老師と書くと読者が混乱するかもしれないし、月代先生も「李先生」と呼んでいたので、ここでも今後はそういうことにしよう。


 ある日、月代先生のティーハウスに二人でいる時に、先生はその女性の写真を見せて、こう説明した。

「この方は、李先生といいます。私の中国茶の先生よ。上海にお住まいなの。もうすぐ日本にいらっしゃいます」


 その女性――「李先生」があまりに美しく、細かったこと、そしてその装いが、なんというか、非常に豪華というか――ゴージャスというか、華美というか、派手でもあったので、感心すると同時に、私は思わず、「あはっ」と少し笑ってしまった。

 私がもっと美人でお金持ちであっても、ここまで華やかなものはとても着こなせない。きっと照れてしまうだろう。

 けれど写真の中の李先生は、照れるどころか堂々と、艶然えんぜんとしていた。


「あらっ、沙奈ちゃん、なぜ笑ったの?」

 ほがらかに笑って月代先生が言った。


「ああ、いえ、本当にきれいな方で……」

「でしょう、それこそ女優さんみたいよね。背も高いのよ」


「それと、華やかですよね」

「そうなの。ジュエリーもそりゃあ、素晴らしいものをお持ちよ。それがまた、よく似合うのよ――。これは上海のホテルでのパーティーだったんだけれど、ホテルで働いている方々が、まるでひれ伏すかのようだったわ」

「……そうでしょうね、っていうか、分かりやすいなあ」

 口には出さなかったけれど、裕福だとすぐ分かる美女だ。ここに出入りしてからマダムオーラを漂わせている女性には慣れたつもりだったが、李先生のそれは、繰り返すことになるが、ある面、分かりやすく、そして強烈にすら感じられた。


「あはははははは……ごめんなさい、他意はないんですけど。世界って広いんですね。異文化って面白いですね」

「まあ、はずみがついちゃったの?箸が転んでもおかしい年頃ねえ、若いっていいわね。ふふふ」


「あれっ、月代さん、随分楽しそうだねえ!さては、沙奈さんが来ているな?」


 ふいに中年の男性の声が聞こえて、私はふりむいた。前述のように月代先生のこの教室にも使われているティーハウスは兼ご自宅で、奥のドアが居住部分につながっているようなのだが、私はそのむこうには行ったことがなかった。


 男性はそのドアから出てきたのである。背の高い、ほぼ白髪の姿勢のいい人で、仕立てのよさそうなスーツを着ていた。それだけでなく、帽子がきざでなく、自然でさまになるこの年代の男性は、私はあまり間近で見たことがなかった。


 肌はうっすらと日焼けしていて色つやがよかったけれど、おそらく五十代より下ではないだろう。晴れやかで穏やかな微笑みも、紳士的な人だった。若い頃はなかなかの美男子だっただろう。現在も風格がある。


「まあ、パパ!今日は早かったのね!嬉しいわ」

「そう言ってくれると思ってました。でもお土産は忘れなかったぞ」

「素敵っ。今日は何?」


 「お土産」はお菓子だったらしい。月代先生はエレガントな反面、少女のようなところがあるのだが、それを受け取ったところも中身を見たさいの笑顔も、本当に無邪気で、可愛らしかった。紳士はまた、それをとろけそうな顔で見ている。


「ほら、沙奈さんをとりのこしてはいけないぞ。紹介しなさい」


「そうだわ、初めてだったわね。……沙奈ちゃん、私の夫よ」


「あっ、そうなんですか!」

 私が驚いた声を出すと、紳士は――いや、月代先生の旦那さんは、あーっはははと、愉快そうに笑った。


「聞いていた通り、素直なお嬢さんだねえ。私と月代は、少し年が離れているからね。それに、私が老け顔で月代が若く見られるものだから、よく親子に間違われるよ。でも、見た目ほどの年の差ではないんだよ?だって月代は……」

「パパ、やめて!女性の年齢にふれるのは無粋だって、いつも言ってるでしょ」


 月代先生はぴしゃりと叱りつけたが、旦那さんは相変わらずにこにこと微笑んでいる。

 そうなんだ。そういえば、月代先生はいくつなのだろう?ひょっとしたら三十代かもしれないと思っていたが、もっと上なのかもしれない。考えてみれば、知らない……。


「沙奈さん、いや、沙奈ちゃんと呼んでもいいかな?今日、いらっしゃると聞いていたので、あなたの分もちゃんと買ってきましたよ。せっかくだから一緒に食べましょう」

「まあ!素敵!パパってば」

「ははは」


 そこで月代先生と私は紅茶を入れて、三人で、お菓子を食べた。


 今日は「紅茶教室」を受けるはずで、紅茶の教材も持ってきたのだけれど、来てみると、他の生徒がキャンセルしたから、中国茶のレッスンに変更した、とまた言われた。

「またですか、困ります。最近知りあった編集者に紅茶の記事を頼まれたので、こちらが進まないと大変なんです」

 と、冷や汗を出しながら訴えたが、月代先生はいつもの、少なくとも私にとっては不可解な表情をした。

 こんな時、いつも彼女はこうだ。目を大きく見開いて、少しの間、呆然としたような、人形のような、何を考えているか分からない顔になる。そのあと、心底不思議そうな表情になり、次に、慈愛すら感じさせる優しい笑みを浮かべ、訴えられていることを聞き流すのである。


「でも、もう中国茶のレッスンの用意をしてしまったわ。沙奈ちゃんに喜んでいただくために、最高のお茶とお菓子も用意したのに。準備に一時間もかかったのよ」

「料金もお支払いしているので、せめてあとで、紅茶のレッスンの不明点の質問だけでもさせて下さい。違っていたら私の仕事に支障がでます。本当に困るんです」

 苛立って、そう必死に言っても、また同じ様子で聞き流す。


 どうしてこんな表情をするのだろう。まるで、『この子は悪いことを言っているけれど、許してあげよう』とでも言いたげな顔……。


 紅茶を入れているとそれが思い出されて、軽く胃が痛んだ。何かを感じたのか、旦那さんが訊いた。


「中国茶のレッスンの用意がしてあるじゃないか。また変更にしたの?」

「……ああ、それは、沙奈ちゃんに頼まれたの!」


 私は黙っていたが、この頃、こういう時に、どう説明すればいいのか分からない重苦しさを感じるようになっていた。


 旦那さんは私に同情したようだったけれど、月代先生の嘘をとがめはしなかった。


 月代先生が話題を変えた。その声は、不思議なくらいに明るかった。

「今、李先生のお話をしていたのよ!また来日なさるんですって」


「また来るの?先々月来たばかりじゃないか。いつだって滞在費から何から、全部うちがもって、この前は、お子さんに好きなキャラクターがいるから、ホテルはそのキャラクターをテーマにした、あのテーマパーク内のホテルにしてくれって、指定までされて」

「中国流のおもてなしはそうなのよ」

「本当にそうなの?」

「私が上海に行くと、いつも、素晴らしいホテルを予約して下さるわ。食事代だって、全部、李先生がもって下さる。一度も払わせて下さらない」

「でも、あなたが最後に行ったのはかなり前だよ」


「うちにいい中国茶の茶葉が入るのは、李先生のお蔭なのよ。パパ、文句はいいかげん、おやめなさい!見苦しい」


「……あの、私、しばらく散歩でもしてきましょうか?」

 いたたまれず、私が提案した。


 すると旦那さんが心底すまなそうに、

「もう、この人には、まいるねえ。言いだすと聞きゃあしないんだから。沙奈ちゃんも困ってるんじゃないの?……でも、月代は純粋でいい子でね。誠実で、お墨付きだ!」

「まあ、パパってば!」


「はい、私も純粋な方だなって、思います」

「ありがとう、君もいい子なんだねえ。どうか、これからも月代をよろしく。困ったことがあったら、いつでも私に相談しなさい」

「こちらこそありがとうございます」


 そう言うと、旦那さんははっとした顔で私を見て、しばらく押し黙ったあと、うつむきながらこう語った。


「……ありがとう。なかなか会えないかもしれないから、お話ししておきたいんだけど、私は月代のことがいつも心配なの。将来も……私は年上だから先にいなくなるだろうし、娘夫婦も出ていってしまったしね。ずっとパリにいて、もう帰ってこないと思います」


「そんな、まだお二人ともお若いですわ」

 月代先生には、娘さんがいたのか。これも知らなかった。


「いやいや、月代は苦労しているんだよ。聞いたでしょ。月代のお母さんはひどい人で、他の姉妹は連れていったのに、月代に恐ろしいことを言って、捨ててしまった。『この子はいらない。この子だけはいらない』なんて、母親として、いや人間として、言ってはいけない言葉だ。……あと、女同士っていうのは難しいのかねえ。月代は当時、名門の女子校に通っていたんだが、ハーフということでいちいち目立ちやすくて、いじめられていたらしい。当時からきれいでモデルもやっていたから、やっかみもあったんだろう」


「でも、『パパ』は素晴らしい人だったわ。私のお父さんは、本当に優しくて、私をとっても愛してくれた」


「そうだね、だから年上の私を選んだ!」

「うふふ」

「私達は、月代が学生の時に結婚したんだよ」

「そしてずっとアツアツ!」


「苦労したから、ちょっと難しいところもあるけれど、本当に月代はいい子ですよ。どうかこれからも友達でいてやって下さいね」


「はい」


「嬉しいっ!沙奈ちゃん、李先生のお迎えにも一緒に行きましょうね。とってもいい方よ」

「はい、先生のお蔭でそういう方にも会えて、楽しみです」

「おお、ありがたいなあ、ワハハ」


 それから三人で話がはずみ、さんざんおしゃべりをして和やかな雰囲気の中、月代先生が新しいお菓子をすすめながら、こう言った。

「李先生のことだけれど、今までは、滞在中もずっと私一人がお相手をしていたの。けれど、今回は来ることも、けっこう急に知らされて。実は私も今、いろいろあって、体調がすぐれないものだから、よかったら、一日だけでも、沙奈ちゃんが手伝って下さらない?例えば、鎌倉が好きだから、ご案内を」

「いつですか?」

「来週の金曜日に横浜にいらっしゃるわ。豪華客船でね」


 ――本当に急だな。頑張って早めに記事を書けば行けないことはないけれど、また寝不足になるのかな?


 不安だったが、李先生にも会いたかったので、締め切りの事情を話しつつ、頑張ってみます、と私は答えた。


「助かるわ……実は今、私もいろいろあって。本当に」

「体調がすぐれないんですか?そういえば、顔色がよくないって思ってました」


「そうなのよ沙奈ちゃん、新聞は読んでる?先月……」


「月代っ、やめなさい!人様にお話しすることじゃない」

 穏やかそうな旦那さんがこの時は一喝した。その場が静まりかえる。


 ――新聞?先月?どういうこと?


 そろそろ失礼した方がいいようだ。後片付けを手伝おうとすると、夫婦そろって固辞された。


 月代先生の紅茶教室、中国茶教室ではいつも、後片付けを一切させてくれない。高価そうなティーカップや食器に何かあったら困るからだろうか?


「本当に結構よ、そのままお帰りになって。あとはすべて私がやりますから」


 旦那さんもいて、洗いものもたくさん出たのも申しわけない、と言うと、

「いいの、こちらの部屋には洗い場がないでしょう。手伝っていただくと、私達の住んでいる部屋に入っていただくことになるのでね」


「ええ……今日はあのドアのそばまでだけでも、重いものだけでも運んで、お手伝いできたら、と思ったんですが」


 そう言うと、月代先生は顔面蒼白になった。その顔も、今までに見たことがある。まるで脅迫されたような表情……。


「やめてっ!物事にはけじめが必要でしょ。お帰りになって、って言ってるのよっ」


 急に怒鳴りつけられた。そんなにしつこかっただろうか、と戸惑っていると、月代先生は立ち上がり、奥のドアに近づき、そのあとは、私を睨みつけ、後ずさりしながら、

「絶対にこちらには来ないで、来ないで、それ以上、近づかないでよっ」

 と叫び、中に入ってしまった。ドアを閉めたあと、鍵をかける音がした。


「なんだか悪かったね。でもそのままでいいから、気をつけて帰って下さい」

 

 旦那さんは私を外まで送って下さった。


 だからその日は見えなかったのだが、本当は、いつだったか、猫が入ってきた時に、奥のドアにふっと近づいたことがある。


 ティーサロンの部屋の壁は、美しい壁紙がはられて、傷ひとつないのだが、居住部分につながる奥のドアは、近くで見ると、ドアノブのあたりが傷だらけで、他にも大きな、切り傷があった。――まるで、ナイフで切りつけたような。


 壁紙がきれいだから変に目立って、どうしてここだけきれいにしないのだろうと思った。ただ、このお屋敷自体は古そうで、ドアも立派なものである。壁紙をはりかえるのは比較的簡単で安価でも、ドアは変えられなかったんだろうと思っていた。長い間には、いろいろなことがあったのだろうと。


 けれどそのドアの傷が、傷だらけのドアノブが、急に気になってきた。


 それに、なぜ、月代先生は突然、あんな顔になったのだろう?まさに顔面蒼白というべき、あの顔も、今までに見たことがある。まるで脅迫されたような表情……。


 そうだ、以前、ここで紅茶教室があった日、こんなことがあった。


 初めて教室に参加した、ふくよかで人のよさそうな女性が、こう先生に訊いた。月代先生とこんなやりとりがあった……。


「いえ、こちらにうかがう前に、最寄りの駅に、だいぶ早めに着いてしまったものだから、あの、駅前の喫茶店で時間をつぶしていたんですよ。……そうしたら、突然、お店の方が声をかけてきてね、『お客様はこれから、月代先生の紅茶教室にいらっしゃるんでしょう?』って。……ご近所の方ですよね?」


「……ああ、あのお店ね。まあ、近所よね。ずっと住んでいらっしゃる方だし」


「そうですけど、と答えたら、『月代先生のお教室にいらっしゃる方は、ひと目見て、すぐ分かりますわ』って。……何も言わないのに、どうして分かったのかしら?」


 月代先生の顔色はますます青くなった。だが、やはりその人は気に留めていない。話を続けていた。


 『月代先生のお教室にいらっしゃる方は、ひと目見て、すぐ分かりますわ』……何も言わないのに、どうして分かったのだろう?(続く)

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