2-11 〈神の奇跡〉、あるいは〈神々の児戯〉②
エミリーが目覚めたその日、夏の風には雨の匂いが混じっていた。
目覚めたあと、ミッコはエミリーと二人だけで話した。ほとんどは他愛のない内容だったが、エミリーは笑ってくれた。いつ以来か、そんな会話がまたできるようになったことが、ミッコは嬉しかった。
その一方で、あの夜のことをミッコは忘れていなかった。
あの夜、二人に何が起こったのか──ミッコが知りたいのはそれだけだった。
ハンターとメイジと出会って以降は、ほとんど何も覚えていないとエミリーは言った。ミッコはときを見計らい、事の真相を知っているであろうマルーン神父を探すつもりだった。しかしその前に、マルーン神父から使いが来た。
「よかった。元気になったみたいだね」
傭兵のジェリコはいつも通り穏やかだった。しかしあの狂気染みた夜を経験したあとでは、その変わらない態度はどこか腹立たしかった。
「えぇ。急に押しかけて、いろいろと面倒をかけてしまったみたいで、ご迷惑をおかけしています」
「そんな気にすることじゃないって。久しぶりの客人なんだ。ゆっくりしていっておくれよ」
ミッコが目覚める前にすでに顔を合わせていたからか、ジェリコと話すエミリーに警戒感はあまり感じられなかった。
ジェリコの案内で、ミッコとエミリーはマルーン神父の待つ屋外広間の昼食会場へと向かった。
「俺たちはどれくらい寝てました?」
「お嬢さんは四日間で、君は五日間だね」
五日間も飲まず食わずで寝ていたのかと思うと、不思議と、人間はなかなか死なぬものだと思った。
「何事もなく儀式が終わってよかったよ。まぁ、俺たちは何をしてるかまでは知らないけど」
儀式とは何なのか、ミッコは掴みかかりたい衝動を抑えながら、ジェリコに訊ねた。ただ、部外者の老兵は何も知らなかった。
雨の匂いのする夏の風が、白く光る村を吹き抜ける。北の塔の影のさらに向こう、北限の峰の稜線には、うっすらと雨雲が引っかかっている。
礼拝所から少し歩くと、屋外広間に着いた。
穏やかな村の営みの中には、外部から来たであろう集団が三つほどたむろしていた。風にたなびく旗の中には、赤の親父を示す赤兎旗もあった。
昼食会場の中心では、腰の曲がったマルーン神父が、赤い刺繍の祭服を着たメイジを伴い、村人や外部の者たちに挨拶をしていた。
「マルーン神父」
ミッコは人の群れを押しのけ、マルーン神父に近づいた。
「おい、ちょっと待ってくれって……」
ジェリコには制止されたが、ミッコは構わず詰め寄った。
「あの夜、何があったのか、我々二人に何をしたのか、説明していただきたい」
「もちろん。今日はそのための昼食会だからね」
マルーン神父の目はあの夜と同じように、少年の輝きを放っていた。
神父はすぐ隣に座るようミッコたちに促すと、メイジを上座に座らせ、そして自らは立ち上がり、会食に集まった群衆に向け演説を始めた。
暑い夏の陽射しの下、その演説は大陸共通語で行われていたが、しかしその内容はまるで意味がわからなかった。
……あの夜。〈神の奇跡〉を探究せし塔の女王の神秘の一端、〈血の交配による祝福〉と〈意志の治癒〉を執り行った詳細をここに語る。
被験者。女。十八歳。〈教会〉出身。非聖職者。貴族であり、高貴な血筋ではあるが、〈神の奇跡〉に繋がる素養は見られない。にも関わらず、現時点でこれだけ深く地平線に魅入られ、かつ向こう側に取り込まれていないのは驚嘆に値する。
被験者の同伴者。男。二十一歳。〈帝国〉出身。帝国人ではなく、〈
被験者となる旅人たちの過去については継続して調査が必要だが、しかし結果として儀式は成功したことをまずは報告する。
今回の儀式により顕在した力は未だ〈神々の児戯〉程度のものかもしれないが、しかし大いなる成果である。これを深めていければ、〈教会〉が〈神の奇跡〉と説く邪な教えの類いを、実力を持って根底から覆すことも可能であると考える。
そして、その中心的役割を担ったこの者を、今日集まってもらった諸兄らのいずれかに託したい。〈神の依り代たる十字架〉の信仰を正していくうえで、〈教会〉を真の信仰へと導いていくうえで、最も神への献身が期待できる方に、この少女を託したい。この者は聖女となる。古の〈教会七聖女〉に並ぶだけの神秘の力を秘めているのだから……。
マルーン神父が何か言うたび、村人たちが誇らしい表情を浮かべ、外部から来た者たちが奇特な視線をミッコとエミリー、そしてメイジに向ける。
「なぁ、このジジイが何言ってるかわかるか……?」
「私もよくわからない……。この村の人たちは〈教会七聖女〉を送り込んでるってこと……? こんな辺境から〈教会〉にまで……?」
「〈神の奇跡〉って二百年前の〈
「それはまぁ、確かに〈神の奇跡〉は伝承に過ぎないけど……。でも、〈教会七聖女〉は信仰の象徴で、みんな大切には思ってるし、心の拠り所にもなってるわ」
「そんな大層なご身分の聖女様の実態は、単なる身売りだったってことか? それも〈教会〉出身者ですらない、どこの誰かもわかんねぇ奴だったってことか?」
「そんなわけは……。わかんないけど……」
「で、〈教会〉の高位聖職者どもは、自分らの代わりに戦場に送り込んで、旗印だって言って戦意を煽ると……。そりゃ〈帝国〉とそりが合うわけないわな……」
ミッコがぼやくと、エミリーは悲しそうにメイジを見た。まだ十歳ほどの少女は、緊張しつつも誇らしげに微笑みを返してきた。
「では、堅苦しい挨拶は抜きにして、会食を始めましょう!」
マルーン神父の祈りとともに、会食が始まった。
見慣れない郷土料理を前に、エミリーはずっと俯いていた。
料理を食べ始めた村人を観察しながら、ミッコは肉のような物を掴み、口に入れた。初めて知る味付けだったが、食べられることはわかった。
「エミリー。食べても大丈夫そうだから、ちょっとでも食べときなよ」
ミッコが言うと、エミリーは野菜炒めのような物を口に運んだ。食べると、ほんの少しだけ、その唇に色が戻った。
こうして食事を取るエミリーを見たのはいつぶりだろうか──その姿に、ミッコは安堵した。
そのすぐ横で、マルーン神父は外部から来た者たちと話し込んでいた。
先ほどの演説にミッコはほとんど呆れていた。正直なところ、この村がどんな邪教を信仰していようが、どうでもよかった。しかし自らとエミリーに起こったあの夜のことだけは、問いたださねば気が済まなかった。
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