2-9 夜の礼拝所
虫の音が聞こえ始めたときだろうか。静かな風の片隅に、足音が聞こえた。
足音に気付いたときには遅かった。ミッコは夜を待って村を出ようとしていたが、しかし陽が落ちる直前、マルーン神父がメイジや数人の少女たちを伴って礼拝所にやってきた。
「少しお時間をいただいてもいいでしょうか?」
曲がった腰をさらに曲げ、マルーン神父が一礼する。何かの祭事か、全員が十字架のペンダントを手に、白地に赤い刺繍の祭服で着飾っている。
まずい状況だとは思ったが、断る理由が思いつかなかった。何より、目が合った瞬間、心中を見透かされているような気がして、ミッコは反射的に頷いてしまった。
ミッコは神父と向かい合った。ただ、腰に提げたウォーピックはそのままにした。
ミッコはマルーン神父を狂信者と信じて疑っていなかった。だから話をするにしても警戒は解かなかった。
マルーン神父は少女たちに何かを伝え、礼拝所の奥へと促した。少女たちが礼拝所の奥へ消えていくと、マルーン神父はまず酒を差し入れてくれた。
ミッコは礼を言って受け取ったが、しかし飲みはしなかった。
「穏やかな寝顔だ……。私の妻も同じように眠っていました」
横たわるエミリーを見るマルーン神父が、目を細める。
「お連れの方はいつからこの状態なのですか?」
訊ねられ、どこまで話すかミッコは迷った。ただ、マルーン神父はそれすら見透かしているようだった。
「あの子たちのことなら心配しないで下さい。礼拝所の地下にいますから声は聞こえません。それにこの村の者たちは大陸共通語の意味は理解できぬ構造になっていますから」
相変わらず含みのある言い方は癇に障ったが、その微笑みに悪意や敵意は感じなかった。
どうせ持ち得る情報は少ないと思い、ミッコはエミリーとの経緯を打ち明けることにした。
「明らかに変調をきたし始めたのは廃墟を探索したときからです。アンナリーゼ殿やその仲間は、住人とか影がどうとか言ってましたけど……」
「住人? あぁ、地平線が魅せるもののことですか」
何か知っているような口ぶりで、マルーン神父が騎馬民の迷信深さを嘆く。
「人は理解できぬものを恐れ、目を逸らす。しかし目を逸らしては、それが何かすら理解できない。奴ら騎馬民の言う住人というのは、考えることも学ぶことも失ってしまった者たちの、意味を持たぬ言葉なのです。もっとも、同じように〈神の奇跡〉を恐れ隠した〈教会〉の伝承を理由もなく信じていた私も、かつては似たようなものでしたが……」
「では、あなたの言う地平線が魅せるものとは何なので?」
「それは生と死の狭間に存在する神秘です。地平線は様々なものを我らに見せますが、特に若い女性は〈神の奇跡〉に繋がる神秘の血が色濃いため、より魅入られやすいのです。我ら
先ほど、マルーン神父は騎馬民の迷信深さを嘆いていたが、しかしミッコにしてみれば、迷信染みているのはマルーン神父も変わらなかった。説教臭い分、アンナリーゼたちより質が悪いとも思えた。
「それとエミリーに何か関係があるので?」
「この村を訪れたとき、私の妻も同じ状態でした。もう五十年も前の話です。結局、妻は戻ってきませんでしたが……」
マルーン神父は酒を飲みながら、自身がここまで辿ってきた旅路を話し始めた。
……七十年前、まだ十歳にも満たぬ子供だったマルーン神父は、欺瞞のない真の信仰を求める家族と共に〈教会〉を出奔した。家族は強い信仰で結ばれていたはずだったが、滅び去った東部を転々とする中で崩壊していった。マルーン神父は若くして孤独となったが、やがて東部入植者の子孫であった女性と出会い、結婚した。しかしその妻も心身に異変をきたし、そしてデグチャレフ村を訪れたのちに死んだ……。
ミッコは聞きながら、エミリーと辿った旅路を重ねた。旅立ちの理由はともかく、この村を訪れたときの状況はどことなく似ていた。
「旅の途中、妻は地平線に魅入られてしまった。私は〈塔の国〉の神秘に救いを求め、この地を訪れた。しかしあのときの私は塔の女王の教えを理解することができず、ただ神に祈ることしかできなかった……」
礼拝所に描かれた〈神の依り代たる十字架〉を眺めながら呟くマルーン神父は、うっすらと目に涙を浮かべていた。
「この村は〈塔の国〉の末裔が暮らす村です。この村は、〈
マルーン神父は一息つくと、思い出したようにまた酒を口にした。
陽が落ち、夜闇に影が消えていく。静かな風が虫の音を運んでくる。
「旅人よ。旅立ちの前に、問いに答えて下さい」
曲がった背を少し正して、マルーン神父がミッコを見る。
「私は、この村の者たちは、地平線に魅入られてしまった彼女を助けたいと思っている。だから、連れ合いであるあなたの気持ちを、これからどうしたいかというあなたの意志を、お聞かせ願いたい。もし助けを求めるのならば、我々はあなたたちに力をお貸ししたい」
まるで告解のようだとミッコは思った。マルーン神父はやはり典型的な聖職者であり、狂信者だと思った。
虫の音と共に、夜の闇が近づいてくる。
信仰を捨てたミッコが何か言ったところで、神が今さら何かしてくれるとは思わなかった。しかし沈黙に耐え切れず、とうとうミッコは貰った酒を口にした。薄黄色のその酒は、生ぬるく、また酷く臭く、最初はとても飲めたものではないと思ったが、しかし酔えるとわかれば二口目以降はすんなり飲めた。
「俺は……、エミリーを助けたい。このまま死んでほしくない。だけど、どうしていいかわからない」
なぜ赤の他人にこんなことを話さなければならないのだ──そう思っても、酔いは思いを吐き出させた。
「出会ったときは……、お互い、ただ寂しかっただけなのかもしれない。でも、確かに愛した。ちゃんと将来を考えてたわけじゃないが、でも二人で生きると決めた。そして確かにここまでの道を歩んできた。だから、これからも二人で生きていきたい」
戦争ののちの出会い、全てを捨てた旅立ち、心躍らせた未知への冒険、不毛の地平線への彷徨、二度とは戻らないであろう無邪気に笑い合った日々……──拳を握り締め、ミッコは今の偽らざる思いを口にした。
「話しづらいことをよくぞ告白してくれました。不肖クリスティアン・マルーン、真なる神の教えを探究する
しばらくの沈黙のあと、それまでは神妙だったマルーン神父が、十字架のペンダントを手にいきなり声を弾ませる。
「さぁ、〈神の依り代たる十字架〉に祈りましょう。そして今こそ、塔の女王が見出した真の〈神の奇跡〉をもって、彼女を闇の底から救い出しましょう!」
そしてミッコの手を取ると、誓いにも似た言葉を力強く述べた。今、その目は爛々と夜闇に輝いており、少年のようにさえ見えた。
マルーン神父の豹変ぶりに、ミッコは再び警戒感を強めた。しかしそのとき、不意に視界が揺れた。
(嵌められた……!)
思ったときには遅かった。ミッコはウォーピックを握ろうとしたが、体に力は入らず、瞬きの間に体は床に崩れ落ちていた。
無数の足音が近づいてくる。エミリーの体が持ち上げられ、礼拝所の奥へと連れていかれる。再び足音が近づいてきて、今度はミッコの体が持ち上げられる。
眠りに落ちる直前のように、意識が遠のいていく。
「この者たちは、その血に神秘を宿した者たちです。準備はできています。どうか安心して下さい」
このイカレた狂信者が……──ミッコは消えゆく意識に抗った。そしてそのまま、夜の闇へと落ちていった。
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