1-10 潜む影

 ウォーピックを握る手に汗が滲む。


 どこからか射し込むわずかな外光が石造りの城郭内をぼんやりと照らす。漂う埃、血の臭いの残る血痕、重苦しい暗闇、冷たい隙間風……。そんな廃墟の片隅を、四人の鼓動が這う。


 この廃墟に踏み込み、どれだけの時間が過ぎたのだろうか──この廃墟は死して久しい。しかし、明らかに何かがいる──その感覚だけが神経を急速にすり減らす。


 先頭のミラーが血痕を辿り、最後尾のイワレンコフが後方を警戒しながら足跡を残す。その道中、ミッコとエミリーは部屋を一つ一つ覗き、罠や獲物がいないかを確認した。

 まずミッコが踏み込み、次いでエミリーが暗闇をランタンで照らす。ミラーが続き、イワレンコフが出入口を抑える。城郭の一階部分は兵舎や倉庫が主だった。薪や樽などの木材はすでに朽ち果て、残る多くは経過した歳月さえわからぬほどに荒廃していた。


 一通り探索を終えるたび、ミッコは静かに息を吐いた。そして部屋から出ようとしたとき、急にエミリーがその動きを止めた。

 何事かとミッコは振り返った。見た瞬間、ぎょっとして固まった。エミリーは泣いていた。その瞳はどこかあらぬ暗闇を覗いているように見えた。

 石床に落ちるランタンが静寂を破る。腰のベルトを握っていた手が離れる。涙を流しながら、エミリーが膝から崩れ落ちる。

「おいエミリー! しっかりしろ!」

「イワレンコフ! 何か動いたら即座に撃て!」

 駆けつけたミラーが昏倒したエミリーの瞳を覗き込む。

「何があった?」

「わからない。気付いたら固まってて、それでこうなって……」

「まずいな。と接触したか」

 ミラーはどこか奥の暗闇を一瞥すると、エミリーを部屋から引きずり出し、扉を閉めた。そしておもむろに水筒の水をエミリーの顔にかけると、その頬を引っ叩いた。

 驚きは一瞬だけだった。ミッコはすぐに鼓動と呼吸を確認した。乱れてはいたが、しかしエミリーは生きていた。

「ミッコ! 戻って来れるよう呼びかけ続けろ!」

 ミッコはエミリーの名を呼んだ。返事はなかったが、握った手はまだ温かった。


 必死だった。戦場ではたくさんの仲間の死を看取ってきた。だからどうすればいいかわからなかった。


 そんなとき、は唐突に姿を現した。


 影──長い廊下の奥、たゆたう薄闇に影が浮かぶ。何なのか、どこからかの外光のそばに蹲るそれは一目では判別できなかった。そして一瞬の硬直の間に、それは動いた。


 咆哮が静寂に響き、均衡が破られる。


 飛び出した影がイワレンコフを押し倒す。生臭い咆哮とともに、鋭いものがイワレンコフを襲う。

「撃ち殺せ!」

 ミラーが叫び、銃声が鳴り響く。燧石フリントが火花を散らし、暗闇に血飛沫が舞い散る。

「クソったれ! ただで殺られると思うなよ!」

 イワレンコフも抵抗し、短剣を影に突き刺す。こぼれる血の臭いとともに、同じ生き物とは思えぬ奇声が暗闇に響き渡る。

 ミッコはエミリーを抱え込み、ウォーピックを握り直した。そんな張り裂けんばかりの状況下で、不意に別の何かが緊張の糸に触れた。

 目だけが光っていた。それは来た道の暗闇に潜んでいた──か──刹那、視線が交わると同時に、それは物陰から跳んだ。

 ミッコは咄嗟に一歩踏み出し、エミリーの前でそれを受け止めた。分厚い塊が覆い被さり、牙や爪が腕や頬を掠めた。鋭い痛みとともに、何か熱いものが衣服に滲んだ。

 跳びかかられるまま、ミッコは押し倒された。押し返そうにも、その体躯は人よりも遥かに大きく、その膂力も尋常のものではなかった。

 影が咆哮するたび、生ぬるい涎が顔面に垂れる。ミッコはとにかく相手を蹴り上げた。ウォーピックを握る両腕は塞がっている。今は渾身の力でもがくしかない。しかし体毛は鋼のように強靭で、衝撃はとても届いていないように思えた。


 ミッコは吼えた。影もまた吼えた──そのとき、一発の銃声が咆哮を切り裂いた。


 その瞬間、圧力は一気に弱まった。ミッコはあらん限りの力で影を押し返すと、左手で短剣を抜き、その刃を相手の牙の根本に突き刺した。

 肉を抉る。柔らかな内臓が血を噴き出し、返り血が確かな手応えを証明する。

 悲鳴と雄叫びが震える空気に混じり合う。ミッコは相手に馬乗りになると、ウォーピックを打ちつけた──たとえその体が鋼のように固くとも、生きているなら殺す術は必ずある──板金甲冑プレートアーマーを着た騎士を殺したときのように、その鋼のような体毛を何度も何度も打ち、鋼に血と肉が溶け合うまでウォーピックを打ちつけた。


 やがて咆哮が止み、暗闇にまた静寂が訪れる。


 夥しい血の臭いの中で戦いが終わる。


 四人は無事だった。ミッコ、ミラー、イワレンコフはそれぞれに傷を負っていたが、しかし五体満足であった。燧石式拳銃フリントロック・ピストルの引き金を引くエミリーもまた、正気を取り戻していた。


 ランタンの灯りを照らし、血溜まりに倒れたを見る。それはではなく獣であったが、しかしミッコの知るどんな生き物とも違っていた──犬か、熊か、あるいは獅子か──この得体の知れない獣のことを、ミラーとイワレンコフは潜む影と呼んだ。

 暗闇の中、どこからか鳴き声がした。そこには巣があり、獣の子供が二匹いた。その体は先ほどの二匹と比べれば赤子同然だった。辿ってきた血痕はそこで途切れており、周囲には食い散らかされた人間が転がっていた。

 ミラーとイワレンコフは躊躇わず拳銃の引き金を引き、残る二匹を撃ち殺した。ミッコとエミリーは部屋の隅からそれを見ていた。

「大丈夫かエミリー?」

 ミッコはエミリーの髪に付着した返り血を拭いた。エミリーは小さく頷いてはいたが、深緑の瞳はずっと血走っており、ほとんど瞬きもしていないように見えた。


 その後はアデーラの隊と入れ違いになった。みな、「よくやった」と声をかけてくれた。しかし廃墟から出ても風は重く、血の臭いも消えなかった。



*****



 その日はすぐに本営への帰途についた。やがて夜が訪れた。

「見ろ! 潜む影の生皮だ! それも四体分だぜ!」

 焚き火を囲む〈嵐の旅団コサック〉の戦士たちの前で、イワレンコフが奇妙な迷彩模様の生皮を自慢げに見せびらかす。それは討ち取った獣の生皮であり、ミッコとエミリーも戦利品として受け取っている。

「あれこそが絶体絶命の窮地ってやつだった。でも俺たちはやったんだ! 廃墟の暗闇を進み、恐ろしい獣を打ち倒し、四人とも無事に帰って来たんだ!」

 イワレンコフが語るたび、男たちが笑い声を上げ囃し立てる。

「さぁ飲もう! 偉大なる〈東の覇王プレスター・ジョン〉の名の許に、遥かなる地平線に血の雨を!」

 弦楽器リュートを手に、イワレンコフが地平線に潜む影との戦いを弾き語る。音楽に合わせ、男たちが杯と娼婦を手に歌い踊る。血と酒の匂いが焚き火を煽り燃え上がっていく。

 宴の最中、アデーラが亡くなった二名の遺品を運んでくる。アンナリーゼいわく、その最期を看取った者は優先的に遺品を貰うことができるらしい。

「ちょっと借りてもいいかな?」

 年期の入った武具や馬具の中から、ミッコは古びた弦楽器リュートを手に取った。アンナリーゼは「ぜひ弾いてくれ」と言って微笑んだ。

 ミッコは弦楽器リュートを手に、エミリーの横に座った。

 イワレンコフが演奏を止め、焚き火越しに目配せしてくる。


 ミッコは深く息つくと、感情の赴くまま弦を弾いた。


 やがて夜風が吹き、静かな拍手が巻き起こった。

「楽器が弾けるなんて知らなかった」

「まぁ、向こうじゃ弾く機会もなかったしな……」

 エミリーと肩を寄せ合いながら、ミッコはポツリと呟いた。昔は戦いが終わるとこうして演奏した。当時、共に飲み歌った仲間の多くはもう死んでいる。

 夜風に弦の音が鳴る。また焚き火越しに視線が交わる。イワレンコフが音頭を取り、ミッコもそれに音を重ねる。無言のうちに合わさる演奏が、薪の燃える音とともに夜を流れる。

「仲間に! 命に!」

 二人の演奏が終わると、ミラーが大きく杯を掲げた。〈嵐の旅団コサック〉の戦士たちもそれぞれに復唱し、そして一息に酒を飲み干した。


 ミッコはエミリーと杯を交わした。エミリーは笑顔だったが、その瞳はまだどこか遠くを覗いているように見えた。


 地平線の夜が更けていく。弦の音とともに、血と酒と戦いが焚き火に燃え上がる。

 焚き火の色を眺めながら、ミッコはまた弦楽器リュートを弾いた。そして夜風の音にその身を任せた。

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