第23話

 桜井は英会話教室に来なくなった。

正確に言うと、俺の講座には来なくなった。それどころか、奴の通う高校の同級生に聞いたところ、登校もまともにしていないのか、授業で顔を見る機会が減ったという。

 俺はあの日、桜井を渋谷の雑居ビル地下のバーに連れて行った。クラウドバーストに会える、と喜んでいたが、実際はもちろんそんな筈は無かった。そこに居たのは、クラウドバーストのそっくりさんが演奏するコピーバンドだった。

「なんだぁ」

 拍子抜けした桜井は間抜けな声を発したが、良い具合に緊張がほぐれたようで、きょろきょろとせわしなく辺りを見渡した。生まれて初めて入ったバーというものの空気を、全身全霊で感じていたいようだった。よほど物珍しいようで、細い目を最大限に見開いて飛び込む情報を摑もうとしていた。瞳をきらきらさせてたくさんの星を浮かべていた。

 俺はその桜井の様子に、遠い昔、親父が近所のバーに連れて行ってくれた時の事を思い起こした。ヤニとジンから飛んだアルコールで淀んだロンドンの場末の臭い。酔っ払いのおっさんの嬌声。割れる瓶の音。普段は寡黙な男の楽しそうな笑顔。俺の、決して良くは無い少ない脳味噌はそれらを見事に再現してくれた。

時間が深まるごとに来客が増えていった。そっくりさんの出番が終わって退散した後、DJがブラーの往年の名曲をひたすら流すイベントが始まった。音楽そっちのけで酒とおしゃべりに興じる奴、無愛想な面で何本もの煙草をくゆらせる奴、酔ってしたたかに頭を打ち付ける奴。様々なスタイルで音楽と夜を愉しんでいる。ひいきにしているバンドのツアーTシャツを着込む奴もいた。そいつらはブラーのイベントなのにオアシスのTシャツを着ていた。「ギャラガー兄弟に殴られるぞ」と軽口をたたいてやった。

 喧噪が落ち着いた頃、俺らは隅っこのカウンターに腰を下ろした。

 DJはブラーの代表的なアルバム『パークライフ』をかけていた。デーモン・アルバーンのどことなくおどけたような、舌っ足らずな歌い方が若い頃は気になったが、改めて聴くとそれが持ち味だとしみじみ思った。そういえばあいつも同じデーモンだったな。そう気づいて俺はジンをあおった。

「先生、ブラーって初めて聞いたけど、かっこいいですね」

 桜井はお気に入りのバンドが増えた様子だった。

「ああ、クラウドなんちゃらよりもずっと良いぞ」

 俺はくわえ煙草で言い放った。

「君の学校のださい奴らには、良さが分からねぇだろうな」

 俺のぼやきには答えずに、桜井は俺の口元のマルボロをじっと見つめた。

「吸う?」

 隣のカウンターでハイボールを飲んでいた女が、桜井にセブンスターを差し出した。見たところ、二十前後の若い女だ。

「吸ってみる?」

 女は続けた。ロングのストレートヘアを左右に分けて、濃いシャドーに彩られた切れ長の目が俺と桜井を鋭くとらえた。白地のTシャツの胸には大きく黒い字で「RAY」と書かれていた。

「いや、こいつは」

俺が制止するのを振り切るや否や

「下さい」

 と、桜井は女の差し出したセブンスターの箱から一本の煙草を指でつまみ上げた。

女は桜井の煙草にライターで火を点けながら、ニッと笑って

「学校のださい奴らなんかよりずっとかっこいいよ」

と言った。

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