第21話

 俺が日本に来た理由は自分でも忘れていた。ヨリコと出会って、一緒に過ごす日々を重ねるうちに、きっとそんなことどうでもよくなってしまったのだろう。

 俺にとって、ヨリコは、思っていた以上に心のよりどころとなってしまった。彼女といて、恋愛特有の心が激しく揺さぶられることはない。相手の気持ちがわからなくて、もやもやと一人思い悩むこともない。まったく情熱には程遠いが、こんな穏やかで安定した「世界」を、俺は生まれてから初めて彼女に教えてもらったのだ。

 ヨリコを作るパーツが好きだ。

太陽の光に透き通る、色素の薄い髪の毛。

白くて、薄い肌。

すっと伸びた鼻筋。

 絶世の美女とは言い難いけど、俺は、この世で一番美しい「かたち」だと思う。誰が何と言おうと、俺にとって完成された「美」をヨリコは独り占めしているのだ。

「あなたが探していたお母さん」

 俺の身体は、ヨリコの小さな口から発せられた一言で硬直した。

「私の親戚が居場所を教えてくれたわ」

 俺は甘い夢から覚めた気持ちになった。寝ぼけた俺の横に、どうしようもない現実が気味の悪い笑い声をあげて横たわった。



 思うようにうまくいかないな。

 俺は自分にそう言い聞かせて生きてきた。人生は望むとおりにはならない。そう思うことで安心する自分がいた。たとえどれほど情けないことだと理解していても、自分にそう言い聞かせることで、どこか救われる気持ちになれた。

「母親の居場所を知っている」

 ヨリコが突然、俺に告げた言葉が俺に突き刺さった。硬直した俺は、しばらく呆然として彼女の言葉を反芻した。横顔に冷や水をぴしゃりと浴びせられた気分だった。

「安曇野でサナトリウムを経営するおばさんとね、たまによく話すの。……たいていはうちの母親のことなんだけどね。なんとなくふっと思いついて、あなたのことを話したの」

 立川の築四十年は経とうとしている狭いアパートに、俺とヨリコはひざを寄せ合ってうずくまっていた。ここだけが俺たちが心穏やかに過ごせる「世界」に思えた。晴天の霹靂みたいに、耳障りの悪い言葉が安穏とした「世界」を変えた。どんよりと暗い空気がじわりじわりと俺を包みこむ。隣で転がっている丸っこいウサギのぬいぐるみを、ヨリコは細く長い指で弄ぶ。彼女がつぶやく言葉に耳を傾けながら、俺はぼんやりとその儚げなしぐさを眺めていた。

「そこにね、あなたによく似た女性がいるの。名字も、たぶん同じ人」

 視界に入っていたウサギのぬいぐるみが、だんだんと霞み始めるのを俺は感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る