第16話
「猫のお父さん」のコマーシャルを手掛けたのが、他でもない我が受講生の高橋さんであったことを知るのは間もなくのことだった。
「あのシリーズは我が社でもかなり気合を入れた作品なんですよ」
流暢な英語でにこにこしながら高橋さんは話してくれた。
「新シリーズのたびに旬なタレントや有名人を起用するんで、こっちの方も気合入れてますよ」
高橋さんは右手の人差指と親指の先端をくっつけて輪っかを作って俺に見せた。「お金」の意味だろう。
「ここだけのお話なんですけど」
輪っかをやめて右手をそっと口元に寄せて隠す真似をした。内緒の話ということか。促されるままに俺は自分の左耳を彼の顔に近づけた。
「次回のシリーズでは外タレの起用を狙ってるんです。しかも世界中で最も旬の彼らを」
「外タレ?」
業界の専門用語か何かだろうか。
「外国人タレントの意味ですよ」
話の腰を折られて高橋さんは悶えた。
「クラウドバーストっていうバンドなんですけど」
今度は俺が悶える番だった。
「先生、ご存知ですか? 彼ら、イギリス出身で今年四月にデビューしたばかりなんですけど。新人とは思えないくらいクオリティーの高い曲を作るんですよね。僕も動画サイトで一度聴いてすっかりファンになっちゃって。今度の新譜も早速アマゾンで予約しちゃいました」
えへへと笑いながら高橋さんは頭をぽりぽりと掻いた。
「現在、向こうの事務所に交渉中ですが、もし成功すれば大変な話題になること間違いなしですよ」
ニンニクのかたちそっくりな鼻から思い切り息を噴き出して、高橋さんは満足そうな表情をして見せた。俺の脳裏に踊る白塗りの顔の男が浮かんだ。
「そうすると、今まで出演していたあの人たちはどうなるんですか。あの、日本の伝統芸能に似たメイクをした彼らは」
俺は密かに彼らのファンだった。素顔が判別不能になるくらい白く塗った容貌が、犬の模様を表したKISSのメイクを連想させて、お茶目で愛嬌がある。
「残念ながら今回でお役御免です。人気もだいぶ落ち着いてきましたし。彼らの存在が世間に浸透しすぎて、もはや新鮮なインパクトに欠けます」
生き馬の目を抜くショービジネスの世界は生存競争が厳しいことは一般人の俺でも予想できる。しかしながら、昨日までは仕事をくれた広告代理店の人間に、こうもあっさりと「お役御免」と言われ、切り捨てられるとは。旬の短い職業とはいえ、会ったことも無いはずの白塗りの彼らが気の毒になってくる。
英会話のレッスン中なのに、高橋さんはもう既に日本語で喋っていた。これではただの雑談である。
「先生は、ロック音楽はお聴きになりますか?」
察したのか、高橋さんは慌てて英語で質問してきた。
「ええ。良く聴きますよ」
しばらく考えて俺は英語で返事した。
「昔、良く演奏もしていましたよ」
へぇえ、と意外そうな顔で高橋さんは俺を見た。
「先生は大変、真面目そうな外見をしてらっしゃるのに。それは驚きです」
「だいぶ昔のことですから」
紫煙と、嬌声と、轟音。
場末のバーの隅っこで、おんぼろギターを弾く俺の周りをそいつらがぐるぐる回る。だいぶ懐かしい想いがした。もう何百年も前の時代の出来事みたいだ。しかし、俺の鼻はシケモクの臭いを、俺の指は錆びた鉄の弦を、瞬時に思い出すことが出来る。
俺が返事したきり、教室にしばしの静寂が流れた。
「あ、それと、実は裏話がいろいろありまして……」
これ以上ロック音楽について掘り下げて会話をするのはまずいと感知したのか、高橋さんは話の筋を「猫のお父さん」のコマーシャル秘話に持っていこうとした。
俺はただ彼のとっておきの裏話を聞いて頷くだけだった。俺があたかも興味なさそうに聞いている様子から、ようやく高橋さんは目線をテキストに落とす気になったようだ。だがそれも束の間の話であった。
「そうだ。先生、今度の土曜日の夕方空いていませんか。一人キャンセルが出ちゃって、急きょ補充しないといけないんですよ」
仕事の武勇伝の次は合コンの話か。
良い加減、英会話に集中してほしい。
それとも赴任先のドバイでもメンバー集めするための練習のつもりなんだろうか。
俺はいらいらして頭が痛くなってきた。一方で、怒っても無駄であると腹の底から諦めの感情が湧いてきた。何を言っても敵わない気がした。相手が不快であろうとなかろうと高橋さんはいつもにこにこ笑うのをやめない。怒りを通り越して、こちらが呆れて折れてしまう不思議な雰囲気があった。以前、奈良の某寺にある菩薩そっくりな笑顔で見据えられると、いかに自分が些細なことで腹を立てる小さな男であるかと反省すらしてしまいそうだ。口角をぐっと上に引きあげて愛想笑いを浮かべるのが精一杯であった。
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