第10話

 人は見た目に必ずしもよらない。それを教えてくれたのもヨリコだった。


 付き合い始めて数回目のデートでのことだった。渋谷川近くの雑居ビルに入っているこじゃれたカフェでお茶を飲んでいる時だった。

 英国風アフタヌーンティーが売りの店だった。スコーンは日本人好みの味付けで少し違和感があったが、セイロンのロイヤルミルクティーは淹れ方が上手いのかまぁまぁ美味しかった。

 ヨリコは持っていたティーカップを無言で置くと、堰を切ったかのように身の上を話し始めた。それはまるでヨリコ以外の誰かが彼女の唇を支配し、自由に操っているみたいだった。


 ヨリコは六歳の時に両親が離婚した。父親はウラジオストク出身の漁師で、日本人のヨリコの母と北海道の小さな漁村で暮らしていた。何かと依存しがちな母親は夫と別れてから一人娘のヨリコにますます依存するようになった。娘を名門の幼稚園に入れて、将来は良い大学に入れて大企業で働かせ、世界的な大富豪と結婚させる。順風満帆で、他人から羨ましがられる完璧な人生を娘に歩ませたいと望んでいたそうだ。

 これだけ聞けば娘の幸せを願うごく普通の良き母だか、ヨリコにとっては違ったという。

「母は自分が思うまっとうな人生を娘に押し付けるだけで、私自身のことなんてこれっぽちも見てくれなかった」

 あれはだめ、これをしなさい。ヨリコは母親の指示する通りに全て従って生きてきた。自立するためのまだなんの力もない子どものヨリコには、そうすることの他に生きて行く術がなかった。母親の言うことに逆らえば殴る蹴るの暴行を受け、罵声を浴びせられ、雨の降る深夜に家を追い出された。

 母親の暴力に耐えられなくなって学校の担任に相談したこともあった。しかし、周りの大人たちは彼女を助けることはしなかった。彼らはヨリコの訴えを一時的な親への反抗心程度にしか思わなかったのである。

 逃げては母親の元に戻され、更に増してゆく恫喝と暴力。

 また、年頃になって徐々に父親に似てくる我が子の容姿も火に油を注いだ。ヨリコのすっと通った鼻筋や、とび色の瞳に深みが増すことで母親は自分を捨てた夫を連想するようになった。

 目の上や鼻に青あざを作って登校する女子高生のヨリコを誰も不憫に思わなかった。万事が「触らぬ神に祟りなし」の調子であった。

 そんな環境でヨリコの成績が思うように上がるわけがない。

 母親は模試の結果をひったくって見ては彼女を素手でぶちのめした。

「お前の脳ミソは馬鹿だ」

「私がこれほど熱心に教育してやったのに、過去に達成したことが何一つない」

「今まで私の要求に満足に応えたことがなかったじゃないか」

「お前は期待はずれの娘だ。こんなのは私の子どもじゃない」

「やっぱりあの男の血が入っているから出来損ないなのかしら」

 東京の外国語大学への進学を理由に上京し、資格のスクール中谷の英会話講師となるまでそれは続いた。ようやく母親から逃れ、居場所を見つけた今でも壮絶な過去の記憶に怯えて泣く夜もあるという。

 上京する際、ヨリコは新居の住所も連絡先も母親には伝えなかった。それでも東京に住む母親の兄、ヨリコの叔父から無理やり聞き出したのか、夜中に長い留守電が頻繁に入っているという。

「ヨリコ、あんたもう二十五でしょ。まともな娘ならもうとっくに結婚して立派なお母さんになってるわよ! あんたは他の人と比べたらだいぶ出遅れてるの! 早くお母さんの見つけた人と結婚しなさい! そんな他人に自慢も出来ないような仕事やめてこっちに帰りなさい。まったく、国立大学出といて英会話講師なんて、情けないったらありゃしないわ」 

 ヨリコの話を聞きながら、どれほどの時間が流れたか俺は分からなかった。ほんの十分程度にも感じたし、十年もの月日が流れた気にもなった。いずれにせよ、彼女の半生に少なからずの衝撃を受けた自分がいた。

「どんな親でも育てて貰ったことに変わりはないし、感謝してる。それと同じくらい、こんな親ならいない方がずっとマシ、早く死ねば良いのにと思うこともあるの」

 うつむいて、両手でティーカップを握りしめながらヨリコは全てを話し終えた。カチカチとカップが忙しく鳴った。

 ふぅっと小さく息を吐くと、彼女は顔を上げて正面から俺を見た。穏やかに微笑んで見せたが、ぴくぴくと震えるこめかみから作り笑いを無理して作っているのが分かった。見ていて痛々しくなった。

「ごめんね。急にこんな話して。重かったね。まだ話すべきじゃなかったのに。でも、貴方なら何となく、聞いてくれる気がしたの。なんでだろ。なんでだろね」

 ヨリコの右目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 なぜか俺は、赤ん坊の俺を抱きながら泣いていた、若かった頃の母をヨリコに重ねた。

 俺は鞄から取り出したハンカチをヨリコに渡した。ヨリコはありがとうと言って受け取り、ハンカチに顔をうずめた。肩が小刻みに震えていた。彼女が泣きやむまで、俺はしばらく雑居ビルの合間を流れる渋谷川をカフェの窓から何となく眺めていた。

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