うさぎと猫。
沖田円
お隣さんこんにちは【いち】
「ニャコちゃん、そろそろお店閉めちゃおうか」
ひょこりとカウンターから顔を出したオーナーは、すでにおなじみのエプロンを脱いでお出かけモードに入っている。
今日は、おやつどきからお友達数名と集まってのお茶会があるそうだ。月に一度のオーナーのお楽しみである。毎月この女子会の日は店を早く閉めて、お昼から夜までたっぷり語り合うのがお決まり。
「わかりました。外の掃除してきますね」
「うん、ありがと。ついでに看板もしまっておいてくれる?」
「はーい」
ドアを開けるとからんころんとカウベルが鳴る。その音をくぐって外に出れば、見慣れた石畳の通りを、おばさんやおじさんやお姉さんや猫ちゃんがのんびり通り過ぎていくのを見られる。
平日の今日は、遠くから遊びに来た人よりも地元の顔なじみさんのほうが多い。斜向かいにある洋食屋さんのシェフにご挨拶をして、ドアに掲げている『OPEN』の札を『closed』に変えた。
「よし。また明日もお願いします」
今日のお店はこれでおしまい。正面の道をほうきで掃いて、飾っている鉢植えの枯れ葉を拾ってから、ドアの横の看板を畳んだ。
『ハーブティー&雑貨 ニカ』。
看板には、オーナーが店を始めた十五年前に書いたという文字が、今も少し掠れながらその役目を果たしている。
名古屋の中心部にほど近く、多くの人で賑わう楽しい商店街、大須。ポピュラーなものからサブカルチャー、流行りものにレトロ、伝統品。様々な物や人、そして美味しいものが集まる、まるで缶入りのドロップスのようなこの街に、わたしの勤める店『ニカ』はひっそりと建っている。
大須観音通りから小路に逸れた少し静かな通りで、お洒落な古着屋さんとドライフラワーの専門店に挟まれたこの店は、小さくて可愛いものが好きなわたしには、まさに夢のような場所だった。
洋風の田舎家みたいなこぢんまりした店内に、ところ狭しと並ぶ商品の数々。新進気鋭のブランドのジュエリーに、人気メイカーの文房具、海外から買い付けたヴィンテージ品から、ハンドメイド作家の手作り小物などなど。この店で扱う商品は、オーナーとわたしが純粋なる個人的な趣味で厳選した、とびきり可愛いものばかりなのである。
そして、店の隅に設けられたたった三席のバーカウンターでは、オーナーお手製のハーブティーも味わえる。ティーそのものはもちろん食器にもこだわっていて、模様の素敵なアンティークのカップで提供されるため、まるで中世ヨーロッパのお貴族様にでもなったかのような気分でハーブティーをいただけるのだ。
とにかくこの店は、わたしにとって大きな宝箱であり、ありったけの幸せがたっぷりと詰めこまれている場所なのである。
店内に戻ると、オーナーがミシンを片づけていた。オーナー愛用のアンティークの足踏みミシンの台には、綺麗な柄の布が縫いかけのままで置かれていた。
いくつものハンドメイドグッズがある中で、オーナーお手製の手さげ袋は長年の人気商品のひとつである。形も作り方も至ってシンプルなのだが、独特な柄の多いメイカーの生地を使っていて、それらを毎回オーナーの独断と偏見により組み合わせて作成するため、非常に個性的かつオンリーワンの品に仕上がるのだ。うちの店に来るお客さんは人と被らないことを求める方も多いので、この唯一無二の手さげ袋が見事に胸に刺さるようだ。
しかし実はこの手さげ、人気過ぎて大抵生産が追いついていないのである。でもお客さんはきちんと待ってくれるから、のんびり屋のオーナーは、いつものんびり気ままに作っている。
「オーナー、看板しまっておきました」
「ありがとね。ねえねえ、本当にニャコちゃんは今日来ないの?」
ミシンにカバーを被せながら、オーナーが肩越しにわたしを見た。
「すみません。みなさんによろしくお伝えください」
「ふふ、ニャコちゃんはおばちゃんたちの人気者だから、みんな寂しがるねえ」
「えへへ、次回はぜひ誘ってくださいね」
月イチの女子会には、わたしもたびたび呼んでもらっているのだけれど、今日はとある理由があってお断りしていたのだ。
「実は、ちょうど今日、お隣さんが引っ越してくるので、できることがあればお手伝いしようと思って」
「あらそうなの。ニャコちゃんとこって、いつもアパート総出でやってるもんね。感心するわ」
「わたしのときも手伝ってもらいましたから、わたしも頑張らないと」
そう、今日は待ちに待った日。
とても仲良しだった前のお隣さん(ドイツ人のグラマー美女)が、お国に帰り引っ越して行ったのがひと月前。わたしの住むアパートは二階建ての各階二部屋であるため、わたしはこの一ヶ月、二階にひとりきりというなんとも寂しい日々を送ってきたのである。
しかし!
その日々も今日で終わり。大家さんの
「どんな人かはまだ知らないの?」
「はい。大家さんの知り合いの知り合いとだけ聞いているんですが……可愛い人だと嬉しいですけど、仲良くなれればどんな人でもいいです!」
「ニャコちゃんなら誰とでも仲良くなれそうだねえ」
そうだといいけれど。そうなりますように。
願いを込めて、店の守護神であるアルパカ人形に柏手を打ってから、わたしは窓のロールスクリーンを下ろした。
我が家は、店から自転車で十分もかからない、徒歩圏内にある。
店のある大須商店街付近は賑やかな場所だけれど、わたしのアパートのある辺りはやや静かになり、マンションや一軒家などの住宅が増える地域である。
アパートに着くと、朝にはなかったトラックが一台道路に止まっていた。空き部屋だった202号室は玄関のドアが開けられていて、階段をのぼった先の短い廊下に、段ボールが五箱ほど置かれていた。
大きい家具か家電でも運んでいる最中なのだろうか、部屋の中からは何やらガタガタと音がしている。中の様子が気になったが、それよりも何よりも、わたしの目に留まってしまったものがあった。
「……」
開け放たれたドアの横。まだこんなにも物が片づいていないのに、どうしてかすでにそこには、表札が掲げてあったのだ。
しかも、なんともわたし好みのとてもキュートな表札なのである。コッペパンみたいな形の木のプレートがフックにぶら下げられていて、『宇佐木』という丸っこい文字と、小さなうさぎのイラストが描かれている。
「……ウサギさん?」
はて、うさぎさん。
うん。よくわからないけれど、なるほどそうか。プリティな名字だし、手作りらしき表札も素敵だ。このうさぎさんのイラストも、味があってとてもお上手。
そう、きっとこれは、すごく可愛い女の人が越して来たに違いない。
それこそまさにうさぎさんのような、小さくてふわふわで愛らしい、お人形さんみたいな女の子が。我が家の隣に越して来たのだろう。そうに決まっている。
……なんて素敵なことだ!
「わーい!」
バンザーイ、とあまりの嬉しさに両手をあげて喜んだ。
よし、そうとなれば早くご挨拶をしなければ。第一印象が肝心だから嫌われないようにしないとね。
と中を覗こうとしたところで、玄関からぬるりとヒゲのおじさんが顔を出した。
「ぎゃあ!」
「ようニャコ。帰ってたのか」
「し、篠さん……?!」
「どうしたよ、そんなに驚いて」
びっくりした……フランス人形を妄想していたところだったから、急にヒゲのおじさんが視界に入ったせいで心臓が止まるかと思った……。
いやはや驚いた。しかしヒゲのおじさんが篠さんでよかった。新しいお隣さんじゃなくてよかった。いや篠さんのことは大好きだけども。ヒゲのおじさんがお隣さんじゃなくてよかった……びっくりした……。
「早いな。仕事はどうした?」
「今日はオーナーの月イチの女子会なので、早めの閉店だったんです」
「ああ、そっかそっか。今日はニャコ、一緒に行かずに帰って来てくれたんだな」
「はい。お隣さんが来る日ですから」
篠さんは、このアパートの大家さんであり、かつ101号室の住人でもある。お歳は三十代に見えるけれど、実は驚くなかれ現在四十半ばらしい。当然ながらこのアパート経営のほかにもお仕事をしているらしいが、なんのお仕事をしているのかは誰も知らない。謎に満ち満ちた不思議なミドルだ。
しかしながら優しくて面倒見もいいから、このアパートに住む人たちのお父さん的存在となっている。もちろん、わたしにとっても。
「篠さん、お手伝い中ですか?」
中からはまだ何やらガタゴトと音が聞こえている。篠さんは時々心配そうと言うか、呆れたような顔で奥を覗いている。
「ああ。おれのほかに人手なくてさ。業者に頼まなかったみたいだから。あいつ棚倒して壁に穴開けなきゃいいけど」
「じゃあわたしも手伝います! そのために早く帰って来たんですし」
「いや、来てくれたとこ悪いけど、荷物少ないみたいでな。もうここに置いてあるので終わりなんだわ」
なんと、わたしの手助けは不要だったのか。前に
「そうだ、せっかくだし今のうちに挨拶しとくか?」
「あ、お隣さんと、ですか?」
「他に誰とすんだよ。おーいウサ。お隣さんが帰ってきた。ちょっと出て来られるか?」
ガタゴト響いていた音が、篠さんの呼び掛けでぴたりと止まった。
ウッ、と息が詰まり、心臓が高鳴る。やばい、どきどきしてきた。変な奴だと思われないように、ちゃんとした笑顔で出迎えないと。
「構えるこたねえよ。おれから見るに、おまえら気が合いそうだ」
両のほっぺたをむにっと持ち上げると、篠さんが目尻にしわを寄せて笑った。
ああ、どうしよう。どんな人だろう。年上かな、年下かな。どちらでも嬉しいけれど、もしも年下だったら、その人にとって頼れるお姉さんになれるといいな。
趣味も合うといいけれど。ジュエリーとか小物とか好きかな。わたしの宝物コレクション、一緒に見てくれたりするかなあ。お友達になって、一緒にお買いものに行けたら最高にハッピーだ。
可愛くて、ふわふわしていて、笑顔が素敵だったりしたら。
そんな人が来てくれたら、きっとわたし幸せ過ぎて、毎日早起きだってできちゃいそう。
はじめましての、新しいお隣さん。
「ほらニャコ、こいつがウサだ。仲良くやれよ」
ざりっとサンダルを履く音がして、わたしはキュッとくちびるを結んだ。
少しだけ独特な匂いがした。知っている匂いだけれど、思い出せない。何の匂いだろうか、と思ったそのとき、目の前に見えたのは、カラフルな染みだらけのTシャツだった。
「はじめまして、あなたがお隣さん?」
見ていたところよりも、声は上から聞こえた。顔を上げると、ようやく、その人と目が合った。
人懐こい笑顔が印象的な人だ。うさぎさんみたいな栗色の、少し癖のある髪の毛が、ひょこりと跳ねて揺れていた。
まんまるの目がとても綺麗で、左目の下には、小さなほくろがふたつあった。わたしの視線よりも、ずっとずっと高いところにあった。
「お隣に越してきました、
「ウサギ、ショウタ……さん……?」
「お隣さんは女の子なんだなあ。可愛い子で嬉しいな」
「ど、どうも……」
いえいえこちらこそ。想像していた女の子とは違いましたが、優しそうな感じの方でとても嬉しいです。
と言いたいところだが、ちょっと待ってくれ。
で……でかい!
「でかいっ!」
あ、口に出してしまった。
「なあ、こいつ背ぇ高いだろ。あはは」
篠さんがのんきに笑う。
なんてことだ。うさぎさん系ふわふわ女子どころか、こんなに大きな男の人が、新しいお隣さんだなんて!
身長いくつくらいあるんだろう。そんなに低いほうではないわたしでさえこんなに見上げているんだもの、190センチくらいはあるのではなかろうか。
おまけに、これはわたしのせいなのだが、小柄な女の子が出てくるものと勝手に勘違いをしていたために、より一層大きく感じてしまう。チョモランマのようだ!
「ウサ、こいつは201号室のニャコだよ。今はちょっとパニクってるけど、普段は気さくな気のいい奴だ」
「ニャコ?」
「わ! え、えっと、
「名前がナコで名字が猫だから、みんなニャコって呼んでんだよ」
「へえ、そうなんだあ」
深々下げた頭を上げたわたしを、その人はきょとんとした顔で見つめてから、小さくぷすすと笑った。
「その呼び方素敵だね。ねえ、おれもそう呼んでいい?」
ついきゅんとしたのは、笑ったそのお顔がとても可愛く見えたからだ。大きな男の人なのに、わたしが想像していたうさぎさん系ふわふわ女子とまったく同じ顔で笑うんだもの。くりくりの瞳をきゅうっと細めて、花がほころぶみたいな、笑い方。
「は、はい。呼んでいいです!」
「ほんと? じゃあおれのこともウサでいいからね。みんなそう呼ぶ」
「う、ウサさん……」
差し出された手は、身長と同じでとても大きい。わたしの手なんてすっぽり包めそうな手のひらに、長い指と、短く切られた爪。
ゆっくりと、頼りない自分の手をそれに重ねた。
ぎゅっと握るとあたたかさが滲む。温度と温度が重なり合って、誰かがそばにいることを知る。
「よろしくね、ニャコ」
「よろしく、お願いします。ウサさん」
緊張していたから、ウサさんほど上手に笑えていたかはちょっとわらかないのだけれど。
新しいお隣さんができた今日から、毎日が少し楽しくなりそうな気になったのは、はっきりとわかっていることなのである。
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