第7話 めまい

 川岸署で諸々の手続きを終え、帰宅できた時には、午後6時を過ぎていた。


 アパートの外廊下を歩いていると、カレーの匂いが鼻腔をくすぐった。


 ここじゃない


 ここでもない


 とドアの前を通るすぎるたびに消去法で消していくと、カレー臭の出所は一番奥の我が家だと気付いた。

 サツマ様、早速カレー作ってるんだ。また変な具入れてないと良いけど。


 鍵はサツマ様に預けてしまって持っていなかったので、インターホンを鳴らした。


「ただいまー。俺だよ、俺」


 ついついオレオレ詐欺みたいな台詞を口にしてしまった、一応刑事なのに、なんてとりとめもないことを考えたのだけれど、しばらく待っても一向に解錠される気配がない。

 もう一度インターホンを押して、ドア越しに呼びかけた。


「おーい、俺だって眼鏡の薩摩のお帰りだぞー。開けてくれー」


 耳を澄ましてみたが何も聞こえない。


 何か変だ。


 台所や居間の電気はついているし、電気メーターも回っている。家に誰かいるはずなのに。


 まさか、あのロン毛、カレー作ってそのまんま異世界帰った?!


 異世界転移の仕組みは全然わからんが、カレーが触媒になって超変化が起こって、何やかんやで世界の裂け目に吸い込まれ、厨二帝国ルサンチマン王国に帰ったのかも!


 だったら、俺的にはとってもラッキーなんだけど、何だろう。この胸のモヤモヤは。


「おいぃぃ! 開けろ! クソロン毛! ヤンデレストーカー野郎! てめえここが誰の家かわかってんだろ!」


 インターホン連打&怒濤のドアノック攻撃を繰り出す。

 ガサでやったらまずい奴だけど、これはガサではないし、俺んちなので遠慮はしない。


「くぉらあああああああ! 家主様のお帰りだぞ! お前が中にいるのは分かってるんだよ! 出てこいサツマぁぁぁ!」


 ちょっと調子に乗り始めた頃、前触れもなく、ドアが開いた。

 十数センチ開いた隙間にすかさず片足を突っ込み、思い切りドアを引っ張った。


 拍子抜けするくらいドアは簡単に開いた。

 強く引っ張りすぎたせいで、全開になった後に、バタンと大きな音を立てて玄関ドアは壁にぶつかり、反動で俺の後頭部に直撃した。


「イテッ!」


 痛みに顔をしかめる俺に、俺の中学時代のピーコックグリーンのクソダサジャージを着たサツマ様は一言「近所迷惑」と言った。


 はい、ごもっともです。


 けどさ、元はと言えば君がですね、と説教モードに入りかけて、今更ながらやたら長い黒髪の間からのぞいている顔が青白いのに気付いた。


 目も虚で、覇気がない。


「あのー、もしかして具合悪いの?」


 こいつ健康保険入ってないから、病院行くと医療費大変なことになるぞ、けど、行かせない訳にいかないし、俺の保険証を使わせたら、犯罪なので二人して無職になってしまう、と現実的な不安を抱えて問うと、サツマ様は小さく頷いた。


「カレー作ってたら、めまいがして、少し横になっているうちに寝てしまった。すぐ出れなくてすまない。今はめまいは良くなったけど、ちょっと気持ち悪い」


「病院行くか?」


 そこまでではないと断られた。


「とにかく中入ろう。カレーは俺が続き作るから」


 部屋の中に入り、横になっているように言いつけると、サツマ様は布団の上で体育座りをして、膝の間に頭を埋めた。


「寝てなくて平気なのか?」


 サツマ様は黙って首肯した。太腿の辺りで艶々の毛先が揺れる。


 少しそっとしておいて様子を見るか。


 洗面所で手を洗い、台所に行くと、カレーは大方出来上がっていた。

 ぱっと見は変なもの入っていなさそうだな。


 カレーだけじゃ味気ないから、サラダでも作ろうと冷蔵庫からレタスを取り出し、水洗いしていると背後に気配を感じた。


「良くなったかー?」


 背を向けたまま努めて明るく聞いたのだが、サツマ様は俺の質問には答えなかった。


「めまいがして寝ている時、変な夢を見た」


 まずは質問に答えてね⭐︎と言いたいのを堪え、相槌を打ってやる。それくらい、サツマ様の声音は深刻だったのだ。これから大事な秘密を暴露する予兆に総毛立つ。


 ジャージャーうるさい水道の蛇口を一旦閉めた。


 時間が止まったみたいに、しんとした。


「夢の中の俺は、ルサンチマン王国で近衛師団長をしていた。ボニー様もいた。けれど、微妙に俺の記憶と違うんだ。記憶より俺はずっと不幸なんだ。惨めなんだ。夢だけど、認めたくないくらいに」


 要は具合悪いせいで嫌な夢見ちゃったってこと?


 なーんだ。大したことなくて良かった。


「体調悪い時、悪夢を見ることは俺もあるよ。フンドシ一丁の益荒男300人に誘拐されて、無理矢理一緒に神輿かつがされるとかさ。暑いし臭いし、ベタベタする感じが妙にリアルで、目が覚めるとげっそりするよ。あんま気にすんな。夢なんだから」


「……夢にしては妙にリアルだった。俺は透明人間で夢の中の俺やその他の人たちを観察しているみたいな感じだった」


「でもお前の記憶と違うんだろ?」


「……まあ」


 ならさ、と言って振り返った。


 台所の引き戸のところで、もじもじしているサツマ様に、俺は提案した。


「気色悪い夢だったってのは分かった。でも、だからってどうもできないぞ。忘れるしかない。今日は飯食って風呂入って早めに寝ろ。それとも気分転換にアマプラでギャグアニメでも見っか。頭空っぽにしてさ。初めてこっちで人混み行ったし、目の前で万引き犯検挙とかあって、精神的に疲れちゃったんだろ」


「うん。そうする」


 力無くサツマ様は微笑して頷いた。


 そうそう、それで良いんだよ、とか俺は言った。


 後にこの時のことを深く後悔することになるとも知らずに、俺はヘラヘラしていた。

 馬鹿な自分を殴りたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る