第2話 死んだと思ったら

 目を覚ますとそこは、地獄の入り口……ではなかった。多分。


 城の噴水にも劣る水量の小川の縁に、俺は打ち上げられていた。

 手足に力を入れると、特に問題なく動いた。息もできるし、水浸しになった体に寒気が走った。

 生きている。

 完璧に死んだと思ったが、俺は生還したのだ。

 ならば、直ぐにでもあの方の元に帰らなければ。

 立ち上がり、辺りを見回す。


 どうやらここは田舎町のようだった。


 見渡す限りの水田、水田、水田、時々家屋。


 湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。


 轟々と耳についてしまった流水音は消え、涼やかな虫の音が聞こえた。


 不意に見上げた空には無数の星がきらめいていて、今にもこぼれ落ちそうだった。

 人喰い川の下流にこんなにも美しくのどかな場所があったとは知らなかった。


 ひとまず適当な農家で風呂を借りようと思い、濡れて重くなった軍服に苦戦しながらも土手から這い上がった刹那。

 俺は人の気配を感じ、咄嗟に「ぬばたま橋」と刻印された親柱の影に隠れた。


 が、いかんせん、俺の体を隠すには親柱は小さすぎた。


 気配の主は、足音を立てずに小走りで近づいてくるようだった。

 全く俺に怯んでいない上に、気配を意図的に消しているような不穏さがあった。まさか、アサシンか。

 ならば、通り過ぎる前に仕留めてしまわなければ。だが、腰に下げた太刀の柄に右手を添えようとし、思わず呻いてしまった。

 肌身離さず持っていたはずの愛刀がない。


 川に流されるうちに、無くしてしまったのか。

 いや、紐で厳重に腰に固定していたのにあり得ない。


 決闘では、一瞬の迷いが命取りとなる。

 そんな常識すら抜け落ちてしまうくらい、俺は狼狽していた。死にかけた後遺症にしても酷い。



「こんばんは。大丈夫ですか?」


 油断させる作戦なのか、アサシンは間延びした声で尋ねてきた。


 せめてもの抵抗のつもりで、頭上のアサシンを下から睨みつけようとし、俺は息を呑んだ。



 雲間から現れた月光に照らされた敵の面差しは、俺と瓜二つだった。

 向こうも同じく驚愕しているのか、眼鏡の奥の切れ長の一重眼が目一杯見開かれていた。


 不思議と敵意や殺意は感じなかった。


 アサシンではない?


 単なる他人の空似で、彼は善良な農民なのだろうか。農民にしては身のこなしが武術の訓練を受けた者のそれだったが、近頃は地方の農家の息子でも来たる有事に備え武術を嗜む者もいると聞く。

 彼もおそらくその類なのだろう。

 ちょっと強いだけの田舎者なのだ。きっと。

 見れば見るほど俺にそっくりなのは、一旦置いておこう。


 大体、相手は縁の太い眼鏡をかけているし、月明かりがあるとはいえ、ここは暗い。

 眼鏡を取らせ、明るい場所に出たら全然違うじゃないか、と一笑に伏せるはず。


 少しずつ余裕を取り戻しつつあった俺は、柔和な笑顔を心がけ、棒立ちしている田舎青年に話しかけた。


「大丈夫だ。だが、全身濡れ鼠でかなわない。済まないがお主の家の風呂と着替えを貸してくれないか。都に帰ったら褒美を十分に送ろう」


 俺によく似た眉間に深いシワが刻まれた。


「お兄さんさ、駅の方行けば四葉の湯あるから、そこ行って。駅分かる? この道右に真っ直ぐ行くとあるから。お金は……これで足りるから、ね。じゃあね。頑張って。この道真っ直ぐね」


 田舎者は強引に俺に紙幣らしきものを握らせると、軽薄な口調でまくしたてながら、その場を去ろうとする。


「四葉の湯って何だ? それに駅って……。そこに行けば馬を借りられるのか?」


「四葉の湯はスーパー銭湯だよ! シャワー浴びれるだろ、あそこなら。仮眠もできるし。てか馬って……。もう終電出てるからタクシーもいるか微妙だけど、四葉の湯に行けば何とかなるって」


 スーパー銭湯、終電、タクシーと矢継ぎ早に聞いたこともない単語を連発され、俺は混乱した。

 無礼な田舎者の態度を諫めるのも忘れるくらいに。

 田舎者の腕を掴み、引き止める。


「待て。俺はルサンチマン王国近衛師団団長のサツマ・シラナミだ。田舎者のお主でも名くらいは聞いたことがあるだろう。恥を忍んで言えば、訳あって遭難している。この地が何州であるかすら知らない。夜分遅くに申し訳ないが助けてくれぬか」


 田舎者はぐえっと潰れたカエルのような奇声を上げ、振り払おうとしていた腕の力を抜いた。

 ひとまず逃げる気をなくしてくれたようで、胸を撫で下ろす。


「……今晩だけだからな」


 目も合わせずに吐き捨てるように言われた。

 ありがたいがどうにも失礼な奴だなと思った。

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