嘘の上塗り
黒河と会社で顔を合わせた修平は狼狽えたままだった。
「いつもの駅でね」
短いメッセージを見て、背筋が凍る。
「ごめん、今日はちょっと、」
そう送ろうとして、ちらりと黒河を見る。ふっと笑った黒河の表情にメッセージを消し、わかった、としか返せない自分に嫌気が差していた。
定時に仕事を終え、いつもの駅で黒河を乗せる。
「奥さん、大したことないじゃん。」
「え?」
「あんなボロ雑巾みたいな、白髪だらけの女のどこがいいか全然わかんない。」
「いや待てよ、歩美はさ」
「あゆみさんっていうんだ。名前は可愛いね。」
「いや、だから、」
「別れて。結婚して、私と。」
「出来るわけないだろう。」
「そんな簡単に否定しないでよ!」
こうやって黒河がヒステリックになるのも一度や二度のことでは無い。
「無理なこと言わないでくれよ。
「無理じゃないよ、前言ってくれたじゃん、」
「えっ?」
「お前が一番だよって。言ってくれたじゃん、」
一番という言葉を軽率に言ってしまったことに後悔した。
「ひどい。私、いつか幸せになれると思ってた。」
「いや、そんなつもりで言ったんじゃなくて、」
「じゃあどんなつもりで言ったの、」
「いや、だから、」
「降りる。じゃあ、」
待って、という言葉さえ掛けられなかった。本当に俺が言っていいのかと。待ってもらったところで何になる。
ふらりと寄った深夜まで営業しているスーパーで峯田と歩美が出くわした。げっそり、というわけではないけれど疲れが溜まっている顔を見て何と言おうと躊躇う。
「あ、あのさ。コーヒー飲んでいかない?」
「今バーが営業してるんじゃないの?」
咄嗟に出た言葉を恨めしく思いながら、脳内の言葉を手繰り寄せるもどれも当てはまらない。
「あ、店には置いてないんだけどさ、俺んちに美味い豆があってさ、」
「そんなに美味しいの?」
「うん。美味いよ。」
口から飛び出た言葉が予想とは違ったが、もう気にしていられない。
「そんなに美味しいなら店に置けばいいじゃない。」
正論過ぎて言葉にならない。
「でも、そんなに美味しいなら飲んでみたい、」
言葉遊びを楽しんでいるだけなのか、それとも本気なのかわからない歩美に峯田はそっと手を伸ばす。
「車の鍵、貸して。」
「えっ、」
「歩きだもん、俺。疲れてるでしょ、俺が運転するから。鍵、」
ああ、うん、なんて曖昧な返事で鞄から鍵を取り出す。それを受け取った峯田は歩美の腕を掴み、店を後にした。
いつもは走り去って行くのを見送るだけだった車の運転席に乗り込む。セルを回し、これといって会話が弾むわけでもなく、家まで向かった。すぐ横には好きな人がいる。彼女の車、それも運転席に座って。ギアを変えた拍子に手を握ろうかなんて若ぶったことを考えてはやめてを繰り返す。きっと実らない、けれど言葉にするだけならいいんじゃないかなんて無責任に考えた昨日の自分に嫌気がした。もう一度でいい。触れたい。
アパートの来客用の駐車場に車を停め、家の鍵を空ける。どうぞ、とだけ言って、ドアを開け歩美を待つ。恐る恐る、ドアの前まで来た歩美は小さな声で、お邪魔します、とだけ言って部屋へと足を踏み入れた。
玄関のドアを閉め、何となく見つめ合い噛みつくようなキスをした。何度も何度も角度を変え、時々吐息を漏らしながら。舌を絡めて味わうように、何かを上塗りするように。唇を離し、また寄せる。唇の端をなぞるように這う舌。
溢れた想いが一滴ずつ落ちる音が部屋にこだまする。角度を変え吐息を漏らす度、唇を離す度に、静かな部屋にはやたら大きく聞こえた。
大きな手が歩美を包む。
「帰らないで。ここに居てよ。」
「まだ帰らない、でも帰らないと。」
そっと触れ合った肌から体温を感じる。
「俺だけのものになってよ、」
抱き締められた隙間から、か細い震える声が聞こえる。
「そんな無茶言わないで、」
「歩美さんも俺のこと好きでしょ?」
「そんなんじゃないよ。」
「じゃあ何でさっき逃げなかったの?今日は逃げれたでしょ?」
「逃げたくなかった。怜央からも、自分からも、」
「えっ、」
「コーヒー、飲みたい。」
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