閑話 夫の感情に興味のない妻(アナルド視点)
「お、おはようございます…?」
用事を済ませてバイレッタの部屋に戻って彼女の目覚めを待っていれば、ようやく目が開いた。ぼんやりとしたアメジストの瞳に、意思の光が宿る。
なんとも綺麗なものだと感心しつつ、先ほどレットから聞かされた話を反芻して不快な気持ちになった。
ベッドの脇に立っていたアナルドに気が付いて、窺うようにおずおずと妻が朝の挨拶を口にする。
「おはようございます。もうすっかり昼も過ぎていますが」
「え、昼…あっ、選定した布の回答の締め切り!」
レットの言うように、彼女はすぐに仕事の話になった。
さすがは付き合いの長い秘書だ。彼女の思考をよくわかっている。
「朝早くに貴女の秘書とかいう男が来て、回答しておきますと話していました。今日くらいは一日安静にしているようにと医者からも言われています」
「ああ、よかった。あの21番の光沢があれば素敵な上着が格安で量産でき…すみません、安静にしています」
言いかけたバイレッタははっとして、すぐに謝罪してきた。
とくにアナルドが声をかけたわけではないが、不快な気持ちが募ったことと関係あるのだろうか。
「あ、そうだ、爆発! どうなりましたか。ええと、ドノバンは無事……」
目に見えてアナルドの顔色が変わる。
仕事の次は家令だと?
彼女の頭の中はどうなっているのか。
まずは自分の体のことを心配するのではないだろうか。なぜ少しも聞かれないのか。
アナルドはバイレッタが爆発に巻き込まれたと聞いて心臓が止まりそうなほど、衝撃を受けたというのに。
妻がケロリとしているのはどういうことか。
やはり慣れないことをするべきではないと頭の片隅で思いつつ、過度の心配は瞬時に怒りに変わった。
なぜかバイレッタは蒼白になったが。
彼女の様子に構わずに、アナルドは静かに口を開いた。
父のあの優越感に浸った顔を思い起こせば、尚更に低い声になる。
「倒れている貴女たちを見つけたのは父です。しっかりとドノバンを抱きしめて離さないまま気を失っている貴女を引きはがすのが、それはもう大変だったと長々と語られました。しっかり、べったりくっついていたようで」
「え? ドノバンは無事なのですか」
「貴女が爆風と熱を浴びたので、彼は吹き飛ばされた拍子に顔をこすった程度のかすり傷です。すでに通常業務に戻っていますよ」
早朝からやってきた客の対応もしっかりこなしていた。それなのに庇った妻は今まで目を覚まさまなかったのだ。昨日の晩からずっと付き添っていたアナルドは、日付が変わって日が昇っても目覚めることのない妻を本当に心配したのだ。朝食も昼食も食べていない。過酷な戦場に比べれば、一日食事と睡眠を欠かしたくらいどうということはないが、精神への疲労度が格段に違う。
目覚めない妻の容態が目を離している間に急変するかもしれない。そう考えるだけで、どれほど心配だったと思うのか。
きっと彼女にとっては自分の感情などどうでもいいのだ。
だから、こんなに平然と安堵の息を吐けるのだろう。
「はああ…よかった。本当によかったです。どうしてそうもったいぶった言い方をなさるのです」
やや批難を込めてバイレッタが自分を見上げてくる。
感情が振り切れて、おかしくなってきた。
それがどれほど冷たい笑顔になっているのか、アナルドは自覚しない。
妻が今すぐにこの場から逃げ出したいと切望していることも察しない。
「貴女は背中に1度の熱傷を負いました。髪も少し焦げていましたので、焼かれた部分は整えさせています」
それに気が付いたのはミレイナだが。その場は追い出されてしまったので、実際にどこを修正したのかは自分のあずかり知らぬことなので説明できない。
アナルドは事実だけを伝えた。
「あ、はい。ありがとうございます」
「屋敷の玄関ホールは半分以上吹き飛んで、男は肉塊になりました。掃除が随分大変だとメイドたちが失神を起こしつつ苦慮していましたので、専門の業者を呼んでついでに玄関ホールも修理しています」
「あ、そうなんですね」
「そんな貴女がドノバンの心配ですか、そうですか」
「え、いけませんか?」
「そうですね、不愉快です」
「なぜ?!」
なぜとはどういうことか。
どうして、自分が不愉快にならないと思うのだ。
心が砕けるほどに心配した。
胸が潰れる思いだった。
寝ている妻の顔を一晩中眺めても落ち着かないほどに。
目が覚めて、自分がどれほど安堵したのかわからないのか。
どうしてこの愚かで傲慢な妻は察してくれないのだ。
それなのに、なぜだと?
妻は敏いくせに、アナルドの感情には恐ろしく鈍感だ。
自分も己の感情には鈍感だが、彼女は夫の感情に興味がないように思える。
それが、悲しいのだと自嘲気味に笑う。
それからのアナルドの説教は長かった。
だが結局、男とくっつくなという話に始終したような気がしないでもないが。
そうして滔々と叱るアナルドに対して、バイレッタはただひたすらに弁解と謝罪を繰り返すのだった。
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