第44話 狡猾な灰色狐

「少しよろしいか。一つ、俺から提案があります」


片手をあげたアナルドを見つめれば、夫はいつもの無表情の仮面を張り付けていた。

きっと考え事があると表情を作る余裕がなくなるのだろう。考えて表情を作らなければならないとはなんとも器用な話だ。


「その前に確認したいことがあります、被害の程度はどれほどですか。それと警戒する場所はどこになりますか」

「ケンカや盗みといった軽犯罪がほとんどです。けれど時には人死に発展することもありますね。話があがってくるのは、ここらあたりの農村地域で、このバニアンという村は帰還兵が特に多いとのことです。農村地帯で特に戦争に人手を出したようです。湯治場は若い男が出稼ぎで集まっていただけで、それほど被害の話は聞きません。こちらのケニアンの町は今、集中的に堤防を築いているため人が集まっており揉め事が特に多いようです」

「つまり注意すべきは南部の農村地帯と建設中の周辺の町というわけですね。そして帰還兵や工事に携わっている方たちだと…?」


ゲイルの説明に、アナルドが簡単にまとめれば、彼は頷いて正しいことを示した。

スワンガン領地は南部が農村地帯となり、北東部にかけて湯治場が広がる。水防工事は全域を網羅するように計画しているが、全体の三分の一程度の進行具合だ。人手が増えたため一気に集中して作っているが、分散させようとしてもまとめ役がいないため難しい。


「揉め事を起こす全員が帰還兵というわけでもないですが、触発されてか全体の犯罪件数は増えています」

「水防工事に流れの者も多く雇っていますからね。外から流れてきた者たちが全員悪人とは言いませんが、善人ばかりでないことも確かです」


ゲイルのあとにラスナーが付け加えれば、アナルドは地図に目を向けたまま、思案顔で告げる。


「大切なのは犯罪を事前に起こさないための工夫です」

「といいますと?」

「揉め事の理由は何が多いですか?」

「肩がぶつかっただの、文句を言ってきただのと理由はくだらないことが多いですね」

「そもそもなぜそれほど人は不満をためているのでしょう」

「なるほど。現場の労働環境を見直したほうがいいということですね?」


ラスナーが明るい声を出した。

つまり軽犯罪を起こさせないように人々の不満を少しでも減らそうということだ。

今までは犯罪を取り締まることばかり考えていたが、起こす理由については思い至らなかった。


「そんなに劣悪な環境なのですか?」

「そこまでではないと思いますが、確かめてみたほうがいいですね。不満を少しでも減らせれば効果はあると思います」


思わずバイレッタが口を挟めば、ラスナーは考え込んでいるようだ。


「農村地帯の帰還兵に関しては、戦争に行く前の生活を送ってもらって時間をかけるしかありませんから。暴れた時に抑えられるように見回りを強化するというのでいかがでしょう」

「さすがは狡猾と名高い灰色狐ですね」


ゲイルが感心したように呟くのは、アナルドの戦場での呼び名だ。

情報操作を得意とし、相手の思考を読んだ完璧な布陣を敷くらしい。本人は自分の感情の機微には疎いようだが、相手の裏まで的中させるところは狡猾と言われるだけはある。戦場の詳細までは知らないが、叔父が度々、夫の残虐非道な姿を教えてくれたので聞き及んでいた。


「私も以前は戦場に身を置いておましたから、貴方の噂はかねがねお聞きしておりました」

「そうですか」


アナルドには何の感慨もないらしい。とくに感情を揺さぶられたようには見えなかった。言われ慣れているのかもしれない。その美貌とそれに見合う冷徹さで有名なのだから。


「この度の南部戦線では貴方が提案した敵国の補給部隊への壊滅的な被害が決定打になったとか」

「どちらからその話を?」

「貴方の元部下だという方とケニアンの町でお会いしましたから」

「…そうですか」


アナルドが返事をした途端に、バイレッタの項がピリピリとした。ゲイルも夫の怒りを感じて口をつぐんだ。


え、今の話の地雷はなんだった?


不自然な沈黙に、バイレッタは戸惑いながらも決して顔をあげないように努めるのだった。

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