女神の沈黙

 早朝、ようやく空が明るくなり始めた頃。

 エルシーが目を覚まして身支度を整えていると、侍女が彼女に告げた。


「エルシー様。菜々美ななみ様が大至急お目にかかりたいとおっしゃっていますが、どういたしますか?」

「通してちょうだい。一体何かしら」


 素早く身なりを整えながら、エルシーはルビィに話しかけた。

 ルビィは深刻な顔付きをしている。


「……どうも嫌な予感がします」

「大変だよー!!!」


 いきなりエルシーの部屋に飛び込んできた菜々美は、そう叫んだ。

 起きてすぐに部屋を出たのだろう、普段着……聖女の白い衣に着替えてはいたが、髪もとかさないまま……。


「靴はどうしました?」

「あっ、忘れてた!あたしの国は家の中で靴をかないからね」


 ルビィの指摘に菜々美は叫んだが、すぐに真剣な口調で語り始めた。


「それどころじゃない!大変なことが……」


 エルシーは菜々美を制止すると、侍女に下がるように伝え、再び菜々美に向き直った。


「悪いことが起きたのなら、できるだけ他の人には知られない方がいいわ」

「あー、ごめんごめん。つい慌て過ぎたね」


 扉が閉まると、菜々美は話し始めた。


「夢の中に女神様が出てきたんだけど……」


 菜々美の夢に現れた女神は半透明の姿で、今にも消えそうなほど存在感が弱まっていた。

 女神は、自分はこれ以上意識を保つことができない、力を奪われる前に菜々美に託すと言い、消えてしまったという。


「女神様が……」


 エルシーは衝撃を受けた。


「ずっと会えなかったのは、きっと『異世界荒らし』と戦っていたせいですね。空間を遮断しゃだんしないと、地上に影響が出ますから」


 ルビィは難しい顔をしていた。菜々美は彼女に聞いた。


「ねぇ、どうなったの、女神様は!?」

「落ち着いてください。女神はそう簡単に死ぬものではありません。ですが、当分活動することはできなくなるでしょう。力は貴女が受け取ったのだから、戦う術はあります」

「皆と相談しましょう」


 エルシーは、侍女を呼んで王太子への伝言を伝えた。


「貴女は部屋に戻って、身なりを整えて来て」

「うん!朝早くから騒いで悪かったね。じゃ、後で!」


 菜々美は急ぎ足で部屋を出て行った。


「女神様がいないとどうなるのかしら」


 エルシーは不安げに呟いた。


「一応菜々美が力を受け継いでいるので、隣の国のように魔物が徘徊はいかいしたり、異界の侵入者が好き勝手に暴れるようになったりはしませんが、『異世界荒らし』にとって有利な状況になるのは間違いありません。菜々美はまだ聖女としては未熟ですから」

「こんな時に……」


 まだ時間はあると思っていた。

 味方を増やし、確実に勝利へ近づいているものと考えていたら、この有様だ。


「奴は強敵ですが、まだこの世界を手に入れたわけではありません。私達も前に進んでいます。このままやるべきことをやりましょう」

「えぇ」


 勝てるかどうかは関係なく、戦いを止めることはできない。


 エルシーは無意識に腕輪をつかんだ。

 青白く光る腕輪は、ほのかに魔力を放ち、持ち主に力を与えてくれるかのようだった。


(あの人に会う前に終わらせるわけにはいかないわ)


 腕輪を握りしめ、エルシーは決意を強くする。




 王太子の部屋は今までになく、重い空気に包まれていた。


「女神様の気配が消えたのは、そういうことでしたか……」


 大司教パーシヴァルは沈痛な面持ちでつぶやいた。


「女神様の力は、あたしが預かってるよ。うまく使いこなせるかどうか、自信ないけど」


 菜々美が不安げな顔をすると、パーシヴァルが厳しい表情で言った。


「では特訓ですね」

「うへぇ……」

「まぁ、頑張ってくれ」


 アルフレッドは同情を込めて菜々美に言うと、エルシーに告げた。


「アイリーン嬢のことだが、良い知らせだ。貴女との話し合いに応じるとの返事をもらった」

「本当ですか!?」

「あぁ。アイリーン本人に直接話を聞いた。今までの申し入れも彼女までは届いていなかったようだな」


 チェスターが憮然ぶぜんとした様子で言った。


「そうでしょうね」


 エルシーは予想通りだとうなづいた。

 ブライアンの手紙をアイリーンに見せなかった公爵のことだから、娘に何も言っていなかったということは容易に想像できる。


「難しい要求に応えてくださって、感謝いたします。これで、アイリーン様を説得できますわ!」

「おや、自信がおありですね」


 セドリックがからかうように言った。


「えぇ、お姉様がどんな方かわかってますもの」


 エルシーは微笑した。


「たのんまっせ、僕も念のために戦の準備をしときますさかい」


 レジナルドが陽気に笑った。


「会見は明日、礼拝堂で行う。くれぐれも、頼んだぞ」

「はい」


 願う王太子にエルシーはお辞儀をして、翌日の会見に想いをせた。


(いよいよ明日、お姉様とお話しできる!これで皆を救ってみせるわ)




 その夜、眠れないままに部屋で過ごしていたエルシーは、少し夜の風に当たりたくなった。


(眠れそうにないわ……少しだけ、外の風に当たりましょう)


 部屋の周囲は護衛の騎士や結界で固めてある。暗殺や誘拐ゆうかいの心配はまず無いだろう。


(女神様が消えたというのが不安だけど……)


 エルシーはバルコニーへの扉を開けた。

 冷たい夜風が吹き込んできる。春が近づいているとはいえ、夜はまだ寒い。

 防寒用の紺色のマントを羽織はおり、バルコニーへ歩み出た。


(あまり長居はできないわ……早めに戻りましょう)


 空はてつくような星空。

 月は見えない。星の光だけがかすかに降り注ぐ。


(お姉様はどうしているかしら)


 自分と違ってよく眠っているのか、それともかつての義妹と同様、眠れぬ夜を過ごしているのか。


(あぁ、どうか、お姉様を説得できますように)


 思わず祈りをささげるエルシー。深い眠りの中にある女神には届かないのかもしれないけれど、それでも誰かに願わずにはいられなかった。




「あらあら、神頼みかしら?無駄なことをしてますわねぇ」


 ふいに聞こえてきた、高慢な響きの女の声。

 空の高みから、突き刺さるように悪意が降りかかる。

 全身が総毛だった。この上なく危険なものがここにいる。


 星空を見上げると、にじむように現れたのは、黄金の髪を見事なカールに仕上げ(かつて町で見た悪役令嬢のドリルそっくりだった)、吊り上がった金色の目を鋭く光らせ、目がくらむほどのまぶしい金色のドレスに漆黒しっこくのショールを巻き付けた、威厳のある美女。

 金と黒の女は、悪意に満ちた笑みを浮かべ、宙にたたずんでいる。


「とうとう出ましたね」


 紅玉色の髪の小さな妖精が部屋の中から飛んできて、エルシーの隣に並んだ。

 鮮やかな緑の瞳が夜空に浮かぶ女を睨みつける。


「『異世界荒らし』―――ヴィクトリーヌ!」

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