第三章 淑女の願い事は砕かれる(過去編)

エルシー・クロフォード

 十六年前、クロフォード男爵だんしゃく家に一人娘エルシーが誕生した。


 当時の男爵だんしゃく家は既に、財産の大半を失い生活は楽ではなかったが、両親は娘の誕生を心から喜んだ。

 エルシーは波打つ優しい色合いの薄桃色の髪、すみれのような青紫の瞳の愛くるしい子供だった。

 成長するにつれて、美しさと可愛らしさが増し朗らかで素直な少女に育っていった。



 男爵家の人々が暮らしていた屋敷は古く、貴族の物としては小さかったが、エルシーは自分の家に愛着を持っていた。

 隅々まで手入れの行き届いた居心地の良い屋敷の中や、季節の花が咲き乱れる庭で、楽しく遊んだ。


 今でもエルシーの記憶に残っているのは、広間の肖像画。初代男爵バージルと妻ローズマリーの絵で、友人の画家が描いたものだった。


 屈強な体格をした赤毛の男爵は、いかつい顔に優しい表情を浮かべている。

 そのかたわらに寄りう夫人は、晴れやかな笑顔で訪れる人々を歓迎するように見つめていた。


 華奢きゃしゃでありながら均整きんせいの取れたスタイル、ふさふさした淡い金髪に青紫の瞳の、美しさと愛らしさを兼ね備えた夫人は、エルシーの憧れだった。似ていると言われて嬉しくなったものだ。


 古い果樹園は、人手が足りず、手入れできないまま放置されていたが、エルシーのお気に入りの遊び場だった。

 足元は柔らかな草で覆われ、あちこちに先祖の手で植えられた花が色どりを添える。

 にぎやかな鳥の声と虫の声が混ざり合い、穏やかな風が吹く木立の下で飽きることなく空を眺めて過ごした。


 男爵家の領地は、田舎の小さな土地だったが、気候が穏やかで、作物は豊かに実り、緑の山野の美しい地方であった。

 幼い頃、エルシーは領地の子供達と野山を駆け回って遊んだ。

 領民は、温和な領主夫妻を慕い、娘であるエルシーを可愛がってくれた。



 最初の大きな変化は、父の死だった。


 男爵の死後、わずかな使用人も去り、母は自ら家事をし、仕立ての仕事を引き受けて娘を育てた。

 社交界に顔を出す余裕も無いので、他の貴族との付き合いも無くなった。

 時折幾人かのの領民が手伝いに訪れるだけで、基本的には母娘だけの孤独な生活であった。


 エルシーは母に教わり、家事や裁縫さいほうを身に着けた。母が多忙な折には、代わりに料理をし、仕事の手伝いも始めていった。

 そんな孤独な生活でも、エルシーは幸福であった。家事を好み、裁縫さいほう刺繍ししゅうには母ゆずりの才を発揮した。母は裁縫さいほうにかけては優れた腕前を持っており、知り合いの貴婦人からも仕事の依頼があった。




 そうして過ごしているうちに、次の変化が訪れようとしていた。


 久しく交流の無かった親戚しんせきの夫人が屋敷を訪れるようになった。

 そんな時、エルシーは挨拶あいさつを済ませた後、外で遊んでいるように言われ、追い出されるように部屋から出された。


 家に戻った時、客間から母とその夫人との会話がれてくるのを耳にした。


 何かを熱心に勧める夫人と躊躇ためらう様子の母。立ち聞きをしているのに気づいて、エルシーは部屋から離れた。母のしつけが悪いと思われてしまう。家庭教師を雇う余裕も無いので、淑女しゅくじょとしての教育も母が担っていた。




 そんなある日、親戚しんせきでの舞踏会に母が招待された。

 まだ子供のエルシーは、舞踏会には出られなかったが、一人で家にいるわけにはいかないので、一緒に親戚しんせきの屋敷に泊まることになった。


 屋敷の一部屋で、舞踏会の支度をする母をエルシーは興味深く眺めていた。

 この日のために母は新しいドレスを作っていた。濃い紫色の光沢のある生地に、繊細なレース模様をあしらった上等なドレスだ。


 亜麻あま色の髪を流行の型に結い上げ、わずかに残っていた宝石を身に着けた母は、どこから見ても立派な貴婦人だった。


 エルシーはわくわくしながら、母の周りをまわってみた。


「お母様、とても綺麗!私が大人になったら、こんなドレスを作ってくれる?」


 母は微笑んで、


「貴女が大人になる頃には、流行遅れになっていますよ。……そうね、貴女の将来のことも考えなくてはね」


 そう考えるように呟いた。




 舞踏会の後、母の元へ贈り物が届くようになった。

 大きな宝石のはまった見事な装身具や、立派な温室咲きの花で作られた大きな花束など。

 母はどこか上の空で、考え込んだり、ふいにエルシーに向かって奇妙な質問をするようになった。


「私と二人だけの生活は寂しくない?」

「楽しいわ、お母様」


「兄弟が欲しいと思った事はない?」

「あるわ。妹がいたらいいわね」


「お父様がいるといいと思わない?」

「帰って来てくれたら嬉しいけど、天国って遠くないかしら?」



 例の親戚しんせきの夫人も勿体ぶった様子で訪れ、エルシーに「良い淑女しゅくじょになって可愛がってもらうんですよ」などと教訓めいたことを口にしたり、「わたくしのおかげだということを忘れてはいけませんよ」などと意味あり気なことを語るようになった。

 エルシーはわけがわからなかったが、小さな淑女しゅくじょらしく大人しく聞いておいた。




 そうして、エルシーが十歳になったある日、母が再婚する。

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