3歳10月 菊花賞
やがて、神戸新聞杯の日がやって来た。
30℃越えの中馬運車に乗せられたヒガシノゲンブは、汗を出したがあのうめき声を出す事はなかった。それでも、真っ黒な肉食獣と言うイメージがぼくの脳内から消える事はなかった。むしろなおさら強くなった。
結果は、圧勝。着差こそ三馬身とダービーより少なかったけど、本気を出していないって丸わかり。ここまで圧倒的すぎると、悔しくないとさえ思えて来る。
まるで調教のように悠々とレースを終えて帰って来て、それでもなおレースの空気を持ち込んで厩舎に帰って来たヒガシノゲンブを真っ先に出迎えたのは、ユアアクトレスさんだった。
「ヒガシノゲンブー」
「ああ?」
そのぼくからしてみればやっぱり世界の違うはずの牝馬を、ヒガシノゲンブは不機嫌そうににらみつけた。ぼくがそんな目をしよう物ならば、二勝クラスの分際でと怒鳴りつけに来るような馬を。
競走馬ってのは階級社会だ、二勝クラスより重賞勝ち馬の方が偉いし、GⅠ勝ち馬はもっと偉い。それと別に年功序列もあるけど、条件戦クラスならともかく重賞勝ち馬ともなるとなかなか大きなことは言えない。あるいは調子に乗ってレースで痛い目を見ればわかるんじゃないかって言うのもあるだろう。
「神戸新聞杯、すごかったわね」
「黙れよ、ローズステークス十着馬が。秋華賞の事でも考えてろ」
ヒガシノゲンブは、まったくにべもなく去って行った。
それにしてもヒガシノゲンブのセリフは、非常に重たい。そんな言葉を口にするには、ぼくには足りない物が多すぎる。実績、度胸、それから……ああいけない、ぼくも次のレースを考えなければいけない。
またもやと言うべきか、ヒガシノゲンブが出る菊花賞と同じ週、同じ京都競馬場でのレースだ。
ぼくはあわて気味にふたりの所から逃げる途中でセントライト記念を勝ったワンダープログラムの馬房も通ったけど、ワンダープログラムは何事もなかったかのようにいつも通りじっとしているだけだった。
「わかってたの、勝つって」
「ああ」
ヒガシノゲンブの事をぼくが聞くと、そう言ってうなずいたっきりいつものワンダープログラムの姿を見せつけた。菊花賞の事を考えている、極めて正しいサラブレッドに。耳毛一本すら動かすこともせず、かと言って寝ている訳でもない。ヒガシノゲンブとはまるっきり正反対の、極めて良血馬らしい態度だった。
そして、菊花賞の日が来た。神戸新聞杯が終わった時から、ヒガシノゲンブとワンダープログラムのマッチレースと言われていたこの戦いに、ぼくはまたもや観客として参戦する事になった。別に帯同馬と言う訳でもないのに、皐月賞、ダービーに続いてまたもや同じ日のレースに出る事になった。
ぼくはレパードステークス以来二ヵ月ぶりのレース、実質格上げ初戦のレースを四着と無難にこなせた。戸柱さんが言った通りの、前で走って競り合わない競馬をして。これもまた、ヒガシノゲンブの真似っこなのかもしれない。
そのヒガシノゲンブは今日もまた、勝てばとんでもなく恐ろしいあの笑い声を上げるだろう。そしてその笑い声を聞かされた事のある存在にはヒガシノゲンブを倒す事はできない。勝てるとすれば、同レベルのポテンシャルの持ち主がそれを克服するような精神力を持っていなければならない。
この勝手な理屈の中での候補として、ぼくはワンダープログラム以外の名前を持ち出す事はできなかった。
そしてその唯一の相手候補ことワンダープログラムは、今回も簡単に払いのけられた。
「アハハハハハ……ハハハハハハ!!」
単勝180円。馬連200円。そういうマッチレースを示すにふさわしい数字が並んでいる。ついでに三連単すら900円。ある意味まったく面白くないレースだった。
で、着差は〇.五秒。着差こそダービーの半分になったけど、今回もダービー並みのワンサイドゲームだった。
決して大逃げをした訳じゃない、普通の逃げだった。でもその普通の逃げに付き合ったナンダカイケソウは今回もつぶれてしまいシンガリ、付き合わなかった馬たちは結局道中に付けられた〇.五秒差を詰められないまんまで終わった。
そしてまた、あの笑い声が響いた。
おとなしくなったように見せておいて、その実はもっと重たく鋭い笑い声。お前らとは別物なんだよと言いたげなその声に、今日もまたみんなその力の差を思い知らされて口を閉じさせられた。滝原さんもまた、深くため息を吐いたきり何も言わなかった。戸柱さんと浅野先生もまた、何も言わないままトロフィーを抱えながら笑顔だった。
「見事な物だな……」
そんな中ただひとりだけ、口を開けられていた存在である二着馬の声。その声は、ものすごく立派でカッコいい物だった。そしてその立派な敗北宣言を聞かされたヒガシノゲンブには、先ほどのような笑い声を出す権利があったはずだ。勝者として。
「ああ!?よくもまあそんな事が言えるもんだな」
「相手を素直にたたえて何が悪い?」
「人の事をバカにするからこうなるんだよ?ん?ん?」
「そんなバカな!彼が人の事を蔑むような事を言った事なんか聞いた事ないぞ!」
でも出たのは、わかりやすい怒声だけだった。いったんワンダープログラムの立派な言葉に感嘆していたぼくらは、その不意打ちによってますます口を塞がれてしまった。ワンダープログラムの反論にさらに絡むヒガシノゲンブに対し、シンガリに負けたナンダカイケソウがいきなり吠えた。
その通りだ、ワンダープログラムが他馬の悪口を言った話をぼくは知らない。たまにいら立っている時もあったけど、そこで当たるのは自分ばかり。自分がいかにふがいなかったかについて悔やみ、次こそ何とかしてやろうと張り切る。それがワンダープログラムだったはずだ。
「あーお前さん知らないんだな?なら別にいいや。そのせいでこいつは二冠馬どころか無冠になっちまったんだからな。アハ、ハハハハ、ハハハハハハ……!」
再びあの恐ろしい笑い声を上げたヒガシノゲンブは、壁でも見るような顔をしてワンダープログラムを見据え、そして再び肉食獣のような姿になって笑いながら去って行った。
壁と一緒にされたワンダープログラムは、何も言わない。何も言わないまま、二冠馬となった高笑いの主を見据えていた。サラブレッドとしての本能を目覚めさせた非常にそれらしい姿で。
でも所詮はサラブレッドだ、肉食獣に勝てるのだろうか。
あるいはああ言う道もあるのかもしれないと思わせるほどには、今日のヒガシノゲンブは魅力的であり、かつ絶対的だった。そしてこの時のワンダープログラムとナンダカイケソウは、ヒガシノゲンブよりずっとぼくに近い存在だった。
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