3 かけがえのない人

「いなみーん! 数学の小テスト満点だったよ!」

「きききき北方さん、みっみんな見てますよ」


 私はここが特進科の教室ということも忘れて、興奮のあまりに入室早々いなみんに抱き着いていた。


 あれから二週間、私は毎日ちょっとずつ、いなみんに勉強を教えてもらっていた。

 放課後は二人で教室に居残ったり、夜はお互いの寮の部屋を行き来したりして、親密度もかなり増した気がする。


 そしてなんとつい先ほど、いなみんとの勉強の甲斐あって週一回の数学の小テストで満点を取ってしまったのだ。

 理数系はまるっきりダメな私が、信じられない。

 興奮も致し方ないというものだ。


「ちょっとくらいいいじゃん、ご褒美なの。それに、ぎゅってするのはいつものことでしょ」

「でもでも、こ、ここ教室ですし、み、見られてますよ……」


 いなみんが顔を真っ赤にしてうろたえている。

 いなみんのクラスメイト達の視線が刺さるが、痛くも痒くもない。

 むしろ私の心の中には、もっと見せつけてやればいいという図太い心意気さえある。


 私がいなみんと普通に接していることによって、周囲が持ついなみんの印象もこれから少しずつ変わっていくことだろう。

 実際、奈央もいなみんと話す機会があってから、いなみんへの認識を百八十度変えてしまった。


 だからこそ、である。

 だからこそ、私はその未来を見据えて、前もっていなみんとの仲の深さを見せつけておかなければならないのだ。

 いなみんと仲良くしてくれるのは大歓迎だが、一番の仲良しはこの私だぞ、と。


 なんてことを考えつつ、いなみんのふくよかな胸に顔をうずめ、不足したいなみんパワーを充電して癒されるのだった。


「いなみんのおかげだよお、ありがとう。いなみん大好き」

「い、いえそんな、頑張ったのは北方さんですよ……あ、あの、いつまでこの状態ですか……?」

「うーん、なんにも聞こえない」


 恥ずかしがるいなみんを、私はさらにきつく抱きしめた。

 いなみんが弱弱しく消え入りそうな声を漏らす。

 胸に顔をうずめていると、いなみんの赤面をしっかり見られないのが惜しいところだ。


 衆目を集めて、いなみんはしきりに恥ずかしそうな声を出してはいるが、まったく抵抗しようとはしないのだからまんざらでもないんだろう。

 しかし、ふかふかであったかくてお布団のようないなみんの身体は、どうしてこうも莫大な癒しを秘めているのか……私はすっかりこれの虜になってしまったようだ。


「あ、あの、そろそろ教室に戻った方が……次の授業始まりますよ」

「やだ、あと五分」

「えええ、ご、五分後にはもう休み時間終わってますよ」


 くそ、どうして休み時間はこんなに短いんだ。

 いなみんの身体を余すことなく存分に堪能するには、休み時間の十分は短すぎる。

 せめて最後にと、顔をいなみんの胸に押し付けてスリスリとしてから、私はようやくいなみんを抱擁から解放してあげる決心をした。

 この時点では、あくまで決心のみである。


 身体を密着させたまま重い首をもたげ、いなみんの顔を見上げる。

 至近距離で私を見下ろすいなみんが、恥ずかしそうにして目を泳がせた。


「じゃあ、また放課後ね」


 いなみんが目を逸らしたまま、コクコクと頷く。

 私は背伸びをして、明後日の方向を向いているいなみんの瞳をじっと見つめた。

 そして、上目遣いにとびきりの甘え声を出す。


「ほんと? 放課後にいっぱいぎゅってしてくれる?」

「そそそっちですか、ええと、えとえと……」


 いなみんが慌てふためいて、行方不明になった言葉を必死に探している。

 そんな相変わらずの調子のいなみんに、私は思わず笑いを漏らした。


「あはは、冗談だよ」

「じょ、冗談ですか、よかっ……あれ、よくはないです……あれ……?」


 いなみんがオロオロとして何やらひとりで戸惑いはじめた。

 何だこれ、かわいい。一生観察していたい。


「もう、そんなに抱きしめてほしいならいくらでもしてあげるよ」


 まあこんな言い方をしてはいるが、いつも私の方から勝手に抱きついてるんだけども。

 いなみんが「は、はい……」と言って、より一層顔を赤くさせて縮こまった。

 しかしすぐにハッとして、


「でっ、でもでも、みんなの前では駄目です、は、恥ずかしいので……」


 と訴えてきた。


「わかった、できるだけ気を付ける!」


 私の力強い返事に、いなみんがホッとした様子で首を縦に振った。

 “できるだけ”だから、できなかったらその時は仕方ないよね。

 気を付けていてもどうにもならないことだっていくらでもあるんだから。

 私はひとりで納得して、ゆっくりといなみんから体を離した。


「じゃあね、残りの授業頑張ってね」


 いなみんの手の甲にそっと触れて言うと、いなみんが手首を回して私の人差し指をきゅっと優しく握った。

 人差し指が、いなみんの手のひらの滑らかで温かくて柔らかい感触に包まれる。


 ああ、私の人差し指は今、これ以上ない幸福の真っ只中を漂っているのだ。


「はい、北方さんも」


 私が、うん、と頷くと、いなみんの手が開いて、私の指を自由に晒してしまった。

 なんてことだ、人差し指一本の自由くらい、永遠にいなみんに掌握されるのも悪くないと思った矢先だったのに。

 ……いやむしろ、私の全てを掌握されても全然悪くない。

 むしろ大歓迎、みたいな。

 

 そうして、名残惜しい幸せな時間に別れを告げられた私は、独りきりで自分の教室へと帰っていくのだった。


 はあ、なんて心が寒々しいんだろう、私は寒いほど独りぼっちだ。

 なんて、どこかの小説の台詞を引っ張ってみて、逆に少し寂しい気持ちの今だからこそ、私は全然独りなんかじゃないということを実感した。

 だから、いなみんから距離が離れていくはずの教室への道のりも、自然と軽い足取りになって心が弾んでいるのだ。

 少し大げさかもしれないけど、それくらい、私の中でいなみんという存在が余人に代えがたい大切なものになっていた。




 長い長い授業の時間を超えて、ようやく放課後になった。

 いなみんがやって来るのを待ちながら、だらだらと帰り支度をしていると、


「みゅう、嫁さん来てるよ」


 と背後から声がかかった。

 振り返ると、すぐ右後ろに奈央が立っていた。


 奈央はなぜか、私に対していなみんのことを嫁さんと呼んでいる。

 私がいなみんにべったりだからなのか、何なのか。

 好き好きオーラをあからさまに出しすぎなのだろうか。


 まあ一向に構わないんだけどね。

 そうやって、呼称によっても私といなみんの関係性を確立してくれるのは非常にありがたい。

 何度も言うようだけど、いなみんの一番の仲良しは私なのだぞ、と周囲に知らしめておかなければならないのだから。


 教室の入り口に視線を移すと、肩をすくめてオドオドしているいなみんがいた。

 もう何度も私のクラスには来ているはずだけど、まだまだ慣れそうな気配はない。

 それでも放課後はいつもいなみんの方から私のところに来てくれていて、それがいじらしくて、そんなところも可愛くて仕方がないのだ。


 親犬を見失った子犬のような目で私を見ていたいなみんが、目が合った瞬間に表情をパッと明るくした。

 いなみんに向かって手を振ると、周りを気にしながら恐る恐る教室に入ってきた。

 そんなに周囲に気を配らなくてもいいのに。

 まだ教室に残っている私のクラスメイトたちの反応はすでに、あーまた来たんだ、という慣れに似たある種の無関心状態に移行していた。

 最初のような、テリトリーに侵入した何者かに対するような目に見える精神的騒めきは、まったく無くなったと言ってもいいくらいなのだ。


 私のそばに歩み寄ってきたいなみんからさりげなくカバンを受け取り、膝の上で抱きかかえる。

 いなみんが、「ありがとうございます」と笑みをこぼした。


「印南さんもすっかりうちのクラスに溶け込んでるね。もう全然違和感ないや」


 奈央が可笑しそうに笑った。

 いなみんが顔をほころばせる。


「そ、そうですかね、嬉しいです。でもでも、北方さんと同じクラスだったらもっとよかったんですけど……」

「うう、私といなみんは決して同じクラスにはなれない運命なんだ」


 そう言っていなみんの両手を取る。

 いなみんが私の手を優しく握り返してくれた。


 腕を組んでわざとらしく物憂げな奈央が、傍から、


「学科の壁はどうにもならないね」


 などとぬかした。


「私、来年は特進科に入る。勉強頑張る」

「そんな制度はない」


 奈央が澄ました顔で言う。

 こいつ、私の儚い望みに無情に水を差しやがって、絶対に許さない。


「で、でも私は、こうやって北方さんと毎日会えるだけで、すっごく幸せですよ」

「いなみん! 私もだよお!」


 つないだ両手をしっかり握りあって、意味もなくゆらゆらと左右に揺らす。

 その様子を横で見ている奈央が、ため息交じりに口を開いた。


「相変わらずバカップル全開ね。というか日に日にひどくなってるし。ほんとに出会って二週間なの?」

「いなみんと私は運命の赤い糸で前世の前世から繋がってたから、実質出会って約二百年だよ。ね、いなみん」


 同意を求めると、いなみんはすぐさま首を縦に振った。


「はい、きっとそんな感じです!」

「うわ、ツッコむ気にもならないわ」


 半笑いの奈央が、胸やけをしたように腹部を右手でさすっている。


「私は大真面目だからツッコまないでよろしい」

「さいですか。じゃ私はそろそろ部活行くわ。末永くお幸せに」


 呆れ気味にそう言い置いて、奈央はリュックを背負って通学カバンを手に取った。


「うん、頑張って、ソフトテニス部」

「ソフトボール!」

「が、頑張ってください!」

「はいよ、ありがとう」


 奈央が手を振って、私たちに背中を向けて教室を出ていった。


 その後ろ姿を見送ってから、膝に抱えたカバンを傍に置いて、私はおもむろに立ち上がった。

 いなみんの手を引いて、体の位置を入れ替える。

 そして肩を優しく押していなみんを私の椅子に座らせた。

 間を置かずにひとことも尋ねることなく、私はいなみんの膝の上に腰を下ろした。


「あ、あの、北方さん……?」


 戸惑い気味にいなみんが私の名前を呼ぶ。

 「なに?」と言いながら、いなみんの両腕を掴んで私のお腹に回し、後ろから抱きしめてもらう格好にした。


「やっぱりなんでもないです」


 そう言っていなみんの方から、まるで大切なものを守るように優しく、回した腕を軽く締めてきてくれた。

 たぶん、今の私は世界一強い、防御力が計り知れない。


「本当は対面で座ろうと思ったんだけどね」

「そっ、それはさすがに駄目です、恥ずかしすぎます」

「ちぇ、仕方がないから我慢してあげる」


 いなみんに背中を預け、だらりと体重をかける。

 いなみんが、私の後頭部に顔を寄せるのがわかった。


「ねえねえ、いなみん」

「なんですか?」

「今日は数学の小テストで満点とったから、もうお勉強はお休みでいいよね」

「えっ駄目ですよ、毎日最低一時間は私が教える時間を設けるって、北方さんが決めたんですよ」

「でも今日は宿題が多い」

「宿題の時間は度外視するってルールを決めたのも北方さんですよ」

「うう、いなみんが厳しい……これが愛のムチってやつか」


 グスンと冗談ぽく泣きまねをする。

 いなみんが抱きしめる力をさらに強めて、「えへへ、愛です」と言った。


 まあ正直なところ、いなみんとの勉強の時間も、幸せ以外の何物でもないからいいんだけど。

 いなみんと一緒の時間なら、何でもアメになるってものですよ。

 でも、私は人一倍強欲なのだ。


 首を捻って後ろに顔を向ける。

 いなみんの顔が目と鼻の先にある。

 いなみんがみるみる顔を紅潮させていった。


「じゃあさ、再来週の中間考査で成績良かったらご褒美ちょうだいね」

「えっ、えと、ご、ご褒美って?」

「うーん、いなみんを丸一日私の好きにしていい権利、とかがいい」

「えええ、そっ、それはちょっと……」


 いなみんが顔を背ける。

 「嫌なの?」と訊くと、激しく首を横に振った。


「い、嫌じゃないです! 嫌じゃないですけど……その、なんだか私の心臓がもちそうにないご褒美だなあって……」

「えー、いなみんは一体私に何されるのを想像してるのかな」


 いなみんの腕を右手でさすりながら、面白半分に追求する。

 これ以上ないほどに顔を真っ赤にしたいなみんが、口を真一文字に結んだ。


「あはは、いなみんはかわいいなあ。じゃあねえ、成績が良かったらお出かけしよ」

「お出かけ、ですか」

「うん。あっ、デートって言った方がいい?」

「そそ、そんなこと思ってないです! お出かけでいいです!」

「やった。じゃあご褒美はデートに決まりね」

「結局、デ、デート、なんですね」


 いなみんの手を無造作に弄びつつ、良い成績とは何かと考える。

 しかし、私は即座に考えることをやめた。

 さっぱりわからん。


「いなみん、良い成績って何? いなみんが決めて」

「えと、そうですね……だったらひとまずは、全科目の平均八十点以上、とか」

「それはすごい、すごすぎて無理」

「北方さんならきっと大丈夫ですよ、一緒に勉強しましょう」

「でも、特進科とはテスト範囲違うよね、たぶん。いなみんは自分の勉強もあるから大変でしょ」

「私は大丈夫ですよ。それに、私も北方さんのために何かしたいんです」


 なんて頼もしいんだ!

 事もなげに大丈夫だと言ってのけるいなみんが凛々しく思えてくる。

 実際、中等部から常に一桁台の順位だったと聞いているから、本当に心配なんてものは微塵もないのだろう。

 私はそんないなみんに勉強を教えてもらっているのだから、心強い限りだ。

 それに何より、いなみんが他でもない私のために何かしたいと言ってくれたことが嬉しすぎて、感無量と言う他ない。


「わかった、じゃあいなみんの言う通りの目標にする。デートできるように頑張るね」

「はい、私も頑張ります」


 弄っていたいなみんの右手を両手で包んで持ち上げる。

 そのまま、私の頬にそっとくっつけた。

 いなみんの手はじんわりと温かかった。


「でもね、いなみん。ちょっと私ばっかり貰いすぎかなあ。いつもいなみんからたくさん元気貰ってるし、勉強を頑張ろうって思ったのもいなみんがいたからだし、それでもっていなみんに勉強教えてもらってるし……いなみんのために何かしたいのは私の方も同じなんだよ。いなみんも遠慮しないで、何か困ったこととかあったら、何でも言ってね、私もいなみんの力になりたいから」

「そ、そんな、それは私の方こそ、です。もう数えきれないくらいたくさんのキラキラを、北方さんからもらっちゃいました。返しても返しきれないほど感謝してるんです。でも私、人としてすごく弱いから、できることもすごく少ないけど……でも、その少しのできることが北方さんの助けになっていて、そう思うとすごくすごく幸せで、なんだか私まで嬉しくなっちゃって……あ、あれ、コレって結局私が嬉しいだけでした」


 いなみんがクスっと笑い声をこぼして、私の頭に頬ずりをした。

 手で撫でられる感覚とは少し違って、どことなく胸がキュッと締め付けられる気がした。

 思わず、頬にあてたいなみんの手を強く握りしめた。


 ああ、好きだなあ……大好きだ。


 まだまだ、私の歩くべき道がはっきりしているわけじゃないけど、でも、確かにわかることがある。

 それは、いなみんと一緒にいれば私は決して迷うことはない、ということだ。

 そう思えるのはたぶん、私にとっていなみんが、かけがえのない大切な存在だから。

 どんな道に立っても、いなみんの隣にいて道迷いに悩むことは決してあり得ないのだ。

 だから、いなみんの隣で、いなみんと一緒に、ゆっくり自分の歩むべき道を模索していきたいと思う。


 でも、このいなみんへの気持ちはもう少し、胸の奥に仕舞っておこうかな。

 まあ、私の好意自体は隠しきれていないし、隠すつもりも毛頭ないけど。

 でもいつかどこかのタイミングで、私の口から直接言葉にして、いなみんへの有り余る想いをぶつけたいなあ。


 なんて思ったりして、私の手に握られたいなみんの手の甲に、こっそりと口づけをした。

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