迷子のみちしるべ

やまめ亥留鹿

1 キラキラしてるよ

 昼休み。

 自分の座席で机に教科書を広げているところへ、友達の倉田くらた奈央なおが緊迫した形相で迫ってきた。


「ちょっとみゅう、一体何したの」

「うるさい、黙ってて!」


 こちとら次の時間に数学の小テストがあって大ピンチなんだ、他人に構っている暇は一秒だってない。

 これの点数が合格ラインを越えなければ放課後に追試がある。それだけは絶対に回避したい。

 だって面倒じゃないか。

 だったら最初からちゃんと勉強をしておけという話だけど、現状していないのだから今そんなことを考えても仕方がない。

 大体どうして小テストごときに追試なんてものがあるんだ! 理解不能!


「勉強どころじゃないって。印南いんなみさんが明らかにみゅうを睨んでるんだけど」

「いんなみさん? いんなみさんって誰、知らないよ」


 教科書を睨みながら適当に奈央をあしらっていると、奈央が肩を思い切りゆすってきた。


「もう、なんだよお」


 諦めて顔をあげる。

 心配そうに眉根を寄せた奈央が、ちらと廊下の方に視線を移した。


「ほらあの人。特進科の印南いんなみ杏佳きょうかさん」


 奈央の視線を目で追うと、そこには見知った人がいた。

 ドアの陰に隠れて、こちらをじっと見ている……異様な目つきの悪さで。


 しばらくの間見つめ合っていると、彼女が急にハッとして、身を翻して走り去ってしまった。

 あらら、一体何しに来たのやら……。


 周囲に意識を向けると、何やら騒めいていて、何人かが私にちらちらと視線を寄越してくることに気が付いた。


「みゅう何かしたの? なんで目つけられてるの?」


 奈央が気が気がじゃないという様子で訊いてくる。


 したと言えばしたのかもしれないけど、どうして周りの皆がこんなにも落ち着きを失っているのか、さっぱりわからない。

 だいたい“目をつけられる”って何さ。その言い方だとまるで、あの人がその手の恐ろしい人みたいじゃないか。


「ねえ奈央、あの人って有名人なの?」


 私の質問に、奈央は、あー、と言って納得の表情をした。


「そっか、みゅうは編入組だから知らないのか。印南さん、頭は良いけど、無口だし目つきは悪くて不愛想だし、しょっちゅう隣街でフラフラ遊んでる不良だって噂があるんだよ。中等部の頃に喧嘩騒ぎも起こしたって話で皆印南さんを避けててさ……あの人と何があったのか知らないけど、みゅうも気を付けなよ」

「噂ねえ……」


 どんなしょうもない些細なことにだって尾ひれがついて、先行の印象から勝手に妄想して過剰な脚色を加えて、それがまかり通って多くの人の共通認識となってさらに流布されていってしまう。

 バカバカしいけど、それが人の噂ってものだ。

 悲しきかな、そういった情報を鵜呑みにしてフィルターをかける人が大勢いるのだ。

 やはり、批判的精神というものは場所や時代に関わらず必要不可欠なのだなあ、なんてことを思ったり、思わなかったり。

 シャーペンの頭を顎に乗せて、思い出すのは昨日のことだった。




 日曜日で暇だったし、丁度冷蔵庫の食材も切れかかっていたこともあって、私はひとりで隣町のショッピングモールにやってきていた。

 お店を眺めながら適当にぶらぶらと歩いていると、うなだれてベンチに座る人が目に入った。

 私が通う中高一貫の女学園の制服を着た女の人だった。

 リボンの色が黄色で、見た瞬間に同じ一年生だと把握した。


 何気なくその人に目を留めながら通り過ぎようとする。

 しかし不意にその人が顔を上げて、意図せず目が合った。

 青い顔をしたその人は、私に子犬のようなつぶらな瞳を向けて、無言で必死に助けを求めてきた。そう思った瞬間、その人はすぐに、私を見つめる目をぐっと細めた。


 私は、その目つきの悪さは近眼由来だろうとすぐにわかった。だから、別に怖いとか、睨まれてるなんてことは一切思わなかった。

 私自身近眼で、目を細めるその気持ちは痛いほどによくわかる。

 何より、直前に見た彼女のつぶらな瞳が、そういったマイナスの印象を圧し潰したのかもしれない。


 私は思わず立ち止まって、その人の目の前にしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですか、顔色悪いですよ」


 下から顔を覗き込んで訊く。

 彼女は真一文字に口を結んで激しく首を縦に振った。


「気分悪いですか? 飲み物でも買ってきましょうか」


 相変わらず唇をぴったりと閉じたまま、今度は首を横に振った。


「隣、座ってもいいですか?」


 ベンチの空いたスペースを指差して訊くと、女の人はそこに目を落とし、再び首を縦に振った。

 ベンチに腰を下ろして、


「私も女学園の高等部の一年生なんですよ、北方きたかた美裕みひろっていいます」


 と名乗る。

 女の人がびくりと肩を震わせた。私の顔を恐る恐る見て、すぐに顔を俯けた。

 一連の様子に、ものすごく人見知りなんだろうなあ、というぼんやりとした印象を抱いた。


「お名前は?」


 私が尋ねると、女の人は俯いたまま、喉の奥からギリギリと絞り出すように弱弱しい声を出した。


「いっ……い、なみ、です」

「いなみ?」


 聞き返すと、目をぎゅっと瞑って、また首を縦に振った。


「いなみさんかあ……じゃあ、“いなみん”だね」


 場の緊張をほぐそうと思って、パッと思いついたあだ名を口にして言ってみた。

 彼女は驚きに目を見開いて、またまた何度も首を縦に振った。


 その動きを見つつ、この人のコミュニケーション手段のほとんどは頭の動きなのだろうか、なんてことを考えていた。


「いなみんはさあ、学科はどこなの?」

「えと、とっ……特進科、です」

「へえすごいね、頭良いんだね」


 いなみんが首を横に振った。


「私普通科なんだけどね、勉強はもうすでに置いてけぼりだよ」


 自虐的にあははと笑う。

 いなみんが顔を背けて、ぱちぱちと瞬きをした。気まずい沈黙が流れる。


「ところでいなみん、何か困ったことでもあったの?」


 話を戻そうと尋ねると、いなみんはハッとして私に顔を向けた。

 目が合って、みるみるうちにいなみんの顔が赤く染まっていく。耳まで見事に真っ赤だ。


 顔を俯けてもじもじとして、右の拳を左手で包み込んで弄んでいたかと思うと、次の瞬間、勢いよく首をもたげたいなみんが、私をキッと見据えてきた。

 その迫力に思わず気圧けおされてしまう。


「さっ、財布をなくしちゃいました」


 凄んで何を言われるのかと思えばそんなことか。

 いや、財布をなくすのは大変なことだけども……。


 私にそれを伝えたいなみんは、先程の迫力ある態度とは一変、また最初のようにがっくりとうなだれた。

 なんだか面白い子だなあ、なんて思いつつ、いなみんの肩に手を置いた。

 いなみんがビクッと肩を跳ねあがらせる。


「心当たりのある場所は探した?」


 顔を上げて、こくりと頷く。


「じゃあインフォメーションカウンターに預けられてるかもね、もう行ってみた?」


 いなみんが顔を引きつらせて首を横に振った。

 ああ、きっとこの内気さのせいで他人に尋ねることができないんだろう。


「一緒に行ってみよっか」


 優しく子どもに語り掛けるようにそう言うと、いなみんは心の底から安堵したという表情を浮かべた。


 結局、財布は思った通りインフォメーションカウンターに届けられていた。

 無事に財布を受け取ると、いなみんが何か言いたそうに上目遣いで私を見ては目を伏せた。それを何度か繰り返す。

 何も言ってあげない私も意地悪だなあと思ったが、その動作に妙な可愛さと中毒性があったのだ。これは仕方がないことだと思う。


 しばらくしていなみんは、意を決したようにぎゅっと目を瞑り、顔の前で財布を掲げた。


「あの、おっ、お礼、させてください!」

「いやあ、大したことしてないしいいよ、気にしないで」


 手を振って遠慮すると、いなみんは自分を連行しに来た死神にでも対峙したかのような、そんな絶望的な表情をした。


 ああ……せっかく勇気を振り絞ってくれたんだから、ここで遠慮をするのは非情に過ぎるかもしれない。


「やっぱりお言葉に甘えようかな」


 ニコリと微笑んで答え直す。

 いなみんが目を輝かせてコクコクと頷いた。


「あのあの、たっ、食べたいものがあるんです」

「へえ、なに?」


 いなみんが嬉しそうに、「こっちです」と私に手招きをする。

 なんだか覚束ない足取りでフラフラとしているのは、おそらく視力が悪いせいなのだろう。

 ちゃんと矯正していないと、周囲の人やモノなど、空間を把握するのにひどく労力を注いでしまうのだ。

 背後からは見えないが、今のいなみんは必死に目を細めているに違いない。

 そこまで視力が悪いのなら、眼鏡かコンタクトか、つけたらいいのに。


 そんないなみんに連れられてきたのは、クレープ屋だった。

 いなみんは手を胸の前で組んで、うっとりとした眼差しをお店に向けていた。


「食べたいものってクレープ?」


 いなみんがもじもじとして躊躇いがちに俯く。


「じ、実は食べたことなくて……ずっと食べてみたくて」


 なぜか申し訳なさそうにするいなみんの背中を押して、ふたりでカウンターに並んだ。

 いなみんは並んでいる間中ずっとそわそわしていた。

 いざ順番が来ると、赤面した顔を必要以上に強張らせた。

 笑顔の張り付いた店員さんが、若干尻込み気味なのが少しだけ可笑しかった。


 ここまで二十分ほど一緒にいて、いなみんについてわかったことがある。

 あまりに緊張しすぎると、こうやって表情が険しくなってしまうのだ。

 おまけに、相手の顔をちゃんと見ようとすると、自然と目を細めてしまうのだから、無意識に威圧しているようなものなのかもしれない。

 難儀な人だなあと同情しつつ、そんな不器用なところが少し愛らしく思えてしまう自分もいた。


 メニューを睨んでいたいなみんが、腰を若干かがめて私の耳元に口を寄せて囁いた。


「あのあの、ツナコーンサラダがいいです」


 いなみんに顔を向けると、目を爛々とさせて私を見返してきた。

 クレープを食べたことがなくてウキウキしながらやってきたと思えば、チョイスしたのがツナコーンサラダ。

 個人的にあまりこういう言葉は使いたくないのだけど、この流れだとそこは普通に甘いクレープを選ぶところなのでは……。

 予想外の変化球で、それでいいのか、と問いたくなる。

 もしかしたら、いなみんの渾身の冗談なのかもしれない。

 横目に見える、早く頼んでくださいと言わんばかりに見つめてくるいなみんからして、そんなわけは絶対にないのだが。


 というか、注文は私に委ねるんだ……こんなにもワクワクしていながら、今まで食べたことがなかった理由がなんとなくわかった気がする。

 お礼とは言われたけど、もしかして私は、いなみんに都合よく使われているだけなのでは……いや、頼られていると言っておこう、私としてもそっちのほうがずっと良い。

 それに、どうやってもいなみんがそんな打算的な女の子には見えない。

 お礼をしたいことだって、クレープを食べたいことだって、どちらも純粋な気持ちに違いないのだろう。


 しかしいなみんはこんなことで、日常生活をまともに送れているのだろうか、少し心配になってくる。


 無事に注文を終えてクレープを受け取り、私といなみんは店内のテーブル席についた。

 キラキラした目でクレープを眺めるいなみんは、どこか幼い女の子のような可愛らしさがある。

 いなみんは私よりもずっと身長が高い。おそらく百六十センチ後半から百七十センチくらいなのではないだろうか。

 そんないなみんの挙動がいちいち本当に愛らしくて、これがギャップ萌えというやつなのか、なんてことを考えていた。


「いなみん、私の一口食べる?」


 私が訊くと、いなみんは小刻みに震えるように首を横に振った。


「そう……いなみんのお金で買ってもらったものだし、遠慮しなくていいよ」


 いなみんは目を泳がせて、すまなそうにこうべを垂れた。


「あ、あの私……甘いものが苦手なので」


 なるほどそういうことか、合点がいった。


「甘いものが苦手なのにクレープ食べたいって、なんか面白いね」


 すると、いなみんは私の視線から逃げるように、手に持ったクレープで顔を隠してしまった。


「かっ、かわいいから……女の子みたいでキラキラでいいなって」

「いなみんも女の子でしょ」

「そう……なんですけど、私は全然キラキラしてないので」

「そんなことないよ」


 私は前屈みになって身を乗り出し、いなみんに顔を近づけた。

 いなみんの手首をとって、クレープを顔の前から退かせる。

 一瞬、ぱちりと目が合って、いなみんは瞬時に目を逸らした。


「ほら、いなみんの目、キラキラしてて綺麗だよ」


 私は、一番初めにいなみんを目撃したときの、あの瞬間の瞳を思い出していた。

 いなみんが目を逸らしたまま顔を紅潮させて、耐えかねると言いたげに首をすくめた。

 恥ずかしがり屋のいなみんには、ちょっとやりすぎだったかもしれない、反省反省。


 私が体勢を元に戻すと、いなみんはかすかに微笑を浮かべて、


「あ、あの……キラキラかどうかは分からないですけど、今日はこうやって、き、北方さんとおしゃべりしたり、クレープ買ったりできて、すごく楽しかったです」


 と自分の素直な気持ちを私に述べてくれた。




 耳を通ってきたチャイムの音が頭の中で鳴り響いた。

 私は我に返って、手元の数学の教科書に無気力な視線を落とした。


 あれれ、昼休みが終わっちゃったんですけど。

 これはあれだ、小テストが絶望的になった。追試がほぼ確定したかもしれない。


 と、そんなことを考えつつも、私はなぜか、たった今まで思い返していたいなみんの微笑みのおかげで、少し楽しいような心が躍るような、そんな感情を確かに抱いていた。

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