48:行ってきます、の

「よう、フィーベル」


 背中から声をかけられ振り向けば、にやっと笑いながら片手を挙げたガラクだ。どうやら先程遠征から帰ってきたらしい。真っ先に来てくれたことが嬉しく思う。


「間に合ってよかった。遂に今日か」

「……はい」


 今日が出発日。


 アルトダストはここから場所が遠いこともあり、朝から出発だ。すでに荷物はまとめ、馬車に乗せている。ヴィラとアンネもすでに準備が整っている頃だろう。


 ガラクはちらっとフィーベルの格好を見た。


「制服で行くんだな」

「魔法兵として行きますので」

「なるほどな」


 ふっと笑われる。


「部下から聞いたぞ。俺を探してたって」

「あ、それは……」

「夫婦円満のコツだろう?」


 的を得た言葉に、思わず目を丸くする。ガラクはげらげら笑い「お前さんが俺に真っ先に相談するのはそれだろう」と言われた。確かにその通りだ。


「いいおまじないがある」

「おまじない? 魔法ですか?」

「魔法じゃないが魔法みたいなものだな」


 耳打ちでそのおまじないとやらを聞く。フィーベルは目をぱちくりさせてガラクを見たが、当の本人はにやっと笑った。







 正門だと多くの人の目に留まるため、裏門から出発する。クライヴはマサキと共に見送りに来てくれた。何かと忙しいであろうにわざわざ見送りに来てくれるとは。フィーベルは感動しつつお礼を述べる。隣にいるマサキは静かだった。いつもなら何かしら小言があるのだが、珍しいこともあるものだ。


 他にもガラクやアンダルシアの隊長組。エダンやイズミ。ルカもたまたま時間があったようで、見送りに来てくれた。思ったより見送ってくれる人数が多い。


「いよいよだね」


 今日も今日とて穏やかに微笑む主は美しい。


「精一杯、励んでまいります」

「うん。身体には気をつけて」


 労いの言葉は短いが、クライヴはいつもそうだ。言葉よりも、表情で色々と伝えてくれる。現に今も、優しい眼差しを向けてくれている。城で働かないか、と手を差し伸べてくれたときも、クライヴが纏う雰囲気に釘付けになった。それほどまでに惹きつけられるものを持っているのだ。


 クライヴはすっと横に移動する。


 どうしたのだろうと思えば、その先にヨヅカとシェラルドがいた。丁度今、来てくれたようだ。ヨヅカはいつものように朗らかに微笑みながら軽く手を振ってくれる。その隣にいるシェラルドは真顔だった。見送りに来てくれると予想はしていたものの、実際に目にすると、少しだけ胸が高鳴る。


 シェラルドは怖いくらいに表情を変えない。


 それは彼なりに今回のことを真面目に考えているのだろう。一緒にいれば分かる。見た目や言動がたまに怖いことはあるが、本当の彼はとても優しい。


 クライヴがちらっとこちらを見た。


「せっかくだから二人で話しておいで。出発までまだ時間があるから」

「……はい」


 フィーベルは自らシェラルドの元まで駆け出した。




 今日は風が強いらしく、走りながら髪がなびく。

 歩いてやってくるシェラルドの髪も揺れていた。


 程よい距離で互いの足が止まる。

 そのまましばらく見つめ合う。


 真っ赤な瞳と、金の瞳。


 互いの色を確認するように。

 互いの姿を目に焼き付けているように。


 しばらくしてフィーベルはふっと笑った。


「行ってきます」

「……ああ」

「ヴィラさんやアンネもいます。私は一人じゃありません」

「……ああ」

「後から来て下さるのを、待っています」

「…………」


 返事をしてくれない。

 シェラルドは微妙に眉を寄せた。


 クライヴとシェラルド達は後から来てくれる。だから会える。会えるだろうと思っているが、すぐに会えるかは分からない。場所がアルトダストだからだ。


 行動の制限は向こうが決める。会えるかどうかも向こうが決める。おそらくこちらに決定権はない。アルトダストは友好国だが、そこまで親しい国ではない。もし何か起こり、敵にになれば、一気にやられる。そういう場でもあるのだ。


 フィーベルもそれは分かっている。

 分かってはいるが、大丈夫だと思っている。


 だがシェラルドはそうじゃないらしい。


 今も表情が険しくなっている。心配、してくれている。そういえばガラクが教えてくれた。男性は時に繊細なところがあると。


『男は強いと思われがちだが、弱いところもある。逆に女性は弱いと思われがちだが、強いところがある。男に弱いところがあるのは優しさがあったり、相手に気を許しているからだ。だからもし、そんな姿を見ることがあれば』


 ガラクは笑った。


『ただ受け止めてやってくれ』


 そっと右手でシェラルドの頬に触れる。思ったよりひんやりしていた。触れたことで相手は少しだけ目を大きくする。


 フィーベルは口元を横に広げる。

 笑って見せる。大丈夫だと。


「必ずシェラルド様の元に帰ってきます」

「……本当か」

「もちろん。だって私は、シェラルド様の花嫁ですから」


 するとシェラルドはほんの少しだけ、笑みを見せてくれた。頬に添えられたフィーベルの手を握る。


「……何かあったら俺を呼べ。ルカが教えてくれた。強く願いを込めれば、指輪が力を貸してくれる」

「はい」


 フィーベルは左手で自分の胸元に手を置く。服の中にしまってあるが、いつも指輪がついているチェーンを身に着けている。シェラルドの花嫁である証であり、二人を繋ぐ大切なものだ。


「気を付けて、行ってこい」

「はい!」


 元気よく返事をした。


 ついでに左手で敬礼をしてみせる。いつもなら「しなくていい」と小突かれるところだが、シェラルドは笑って敬礼をし返してくれる。そして互いに手を下ろし、再度見つめ合った。


 これで、一旦お別れだ。

 その時間が来たと、すぐに悟る。


「シェラルド様、ちょっとかがんでもらってもいいですか?」

「?」


 素直に少しだけかがんでくれる。


 少しは顔が近付いたと思われるタイミングで、フィーベルはそっとシェラルドの頬にキスをした。すると相手は固まる。こちらに顔を向け、ぽかんとしていた。


 その顔が少しおかしくて、フィーベルはふふ、と笑ってしまう。これがガラクが教えてくれた「おまじない」だった。


『行ってきますのキスだ』

『え、キ、キスですか?』


 あれこの流れどこかで聞いたことがあるような、と思いつつ話を聞けば、夫婦というのは互いに行ってきますと行ってらっしゃいをする時、キスをするようだ。ガラクの家庭では結婚した時から毎日行っているらしい。さすが愛妻家。互いに無事を祈り、愛情を伝えるものだという。


 最初聞いた時は少しハードルが高いと思ったのだが、別に唇同士でなくていいらしい。そういえばフィーベルは一度、シェラルドの頬にしたことがある。あの時は怒った拍子でしてしまったのだが、シェラルドからお咎めはなかった。


 ルカからキスの話を振られた時はしなくていいと拒否されたが、あれは唇同士の話だろう。頬ならばできる、と、フィーベルは行うことを密かに決めていたのだ。


 シェラルドはどぎまぎしていた。

 以前した時とは勝手が違うからだろう。


 驚いてはいたが、嫌そうではなかった。なら、これは成功、ということでいいだろうか。フィーベルは頬を緩めたまま、にこにこしてしまう。こんなシェラルドを見るのは初めてかもしれない。


「フィーベルさーん。そろそろ行くよー!」


 ヴィラが遠くから声をかけてくれる。


 アルトダストへは馬車で行く。運転は専門の人に頼んでいる。ただ乗ればいいだけなのだが、ヴィラは道を一通り知っておきたいと、先程から確認していたのだ。


「はーい!」


 フィーベルはシェラルドに会釈する。

 そのまま馬車まで駆け出した。


 と、腕を掴まれた。


 その勢いで振り向けば顔が近い。いつの間にか首の後ろにシェラルドの手がある。そのまま引き寄せられながら、顎にもう一つの手が添えられた。


 え、と呟く暇もなく、二人の唇は合わさった。







「……すごかったですねぇ」

「……すごかったねぇ」

「まさかあの場面を見られるだなんて」

「私は同期のそんな姿を見ることになるとは思わなかったよ」

「けっこう長かったですよね」

「確かに。十秒くらい?」

「いや、多分六〜八秒くらいだと」

「……も、もう二人ともやめて下さい……!」


 フィーベルは弱々しく抗議した。

 

 馬車に乗って揺られていたヴィラとアンネは互いにちらっと顔を見合わせる。そしてにやっと笑った。


「いやいやあれ見せられたらねぇ」

「色々話したくなりますよねぇ」

「勘弁して下さい……」


 フィーベルは顔が上げられない。


 あの時、自身の役割は果たしたと気が抜けていた。まさか行こうとするのを止められると思わなかったし、その後の行動にも驚いた。


 相手は目を閉じていた。


 この場合、目を閉じるべきなのか開けたままでいいのか迷った。いきなり、湿った唇の感触。思わず顔をまじまじと見つめてしまったのだ。アンネが言っていた秒数分は合わさっていたと思う。最初は戸惑いがあったが、徐々に本当に唇に触れているのだと実感し、顔が熱くなった。


 なかなか離れない様子に、どこまでこの状態でいればいいのか、と思いながら動けなかった。呼吸がしづらい。反射で離れようとしたが、背中にはしっかり手が回っていた。どうにか耐えようと思いつつも、口の端から声が小さく漏れる。


 するとやっと離れた。


 ほっとしたが、シェラルドが『ふっ』と顔を下に向けて笑った。笑われたことに衝撃が隠しきれず、『こ、ここで笑います……!?』と思わず言っていた。


 するとシェラルドは口元に手を持って行きながらまだ笑っている。『呼吸はいつでもしていい』と言われ、呼吸を止めていたことがバレていた。


『だ、だって、どうしたらいいか分からなくて』

『鼻ですればいい』

『鼻も潰れてるようなものです……!』


 軽く触れるだけかと思えば、隙間もなかった。

 すると『そうだな』とあっさり頷かれた。


 手の甲でフィーベルの頬に触れてくる。先程までの真顔はどこへやら、見つめる眼差しは優しく、その後すぐ悪戯をする子供のようににっと笑った。


『してよかったんだろう?』


 そう言われ、再度顔全体に熱がやってくる。いや、全身からかもしれない。全身が熱い。シェラルドの言葉に分からないフィーベルではない。自分から言ってしまったものだから。


 おかしい、こんなはずでは。明らかにシェラルドの方が動揺していたはずなのに、いつの間にかこちらが動揺する番になっていた。


 フィーベルはなんと返答すればいいか分からなかった。そうです、と言えるほどの勇気はなく、思わず顔を背ける。だが頬にあった手が顎に移動し、上を向かされ、二回目があった。その時は短かったが、離れる瞬間、相手の舌が軽くフィーベルの唇を舐めた。慣れない刺激に、背中が震える。


 シェラルドは真っ直ぐこちらを見つめた。真剣なようで、どことなく、熱っぽく見られているのを感じる。視線を逸らしたくても、逸らせない。


『フィーベル』


 声色がいつもと違うように聞こえる。


『次会ったら』




「最後なんて言われたんですか?」

「え?」

「シェラルド何か言ってたよね。私達は遠くにいたから、聞こえなかったけど」

「それは…………ひ、秘密です」

「えー!? あれだけ見せつけておいて!?」

「流石に気になりますよ、フィーベル様」


 ヴィラもアンネもぐいぐい質問責めしてくる。

 フィーベルは首を振っていやいや、と拒否した。


(……だって)


 フィーベルは唇にそっと手を近付ける。

 まさか行く前にこんなことになるとは。


 心臓が鳴りっぱなしで死んでしまうんじゃないかとすら思った。それほど刺激が強く、同時に……胸が痛くなるほど喜びがあった。


 それに、彼はこう言ったのだ。




『次会ったら、好きだと伝える』




(……言ってるようなものじゃないですか)


 早く応えたいのを我慢しなければならないなんて。


 胸元の指輪をぎゅっと抱きしめる。手の中で、指輪は淡い桃色から真っ赤な光を放っていた。







「……もうすぐ主の可愛い子が来るのね」


 門の近くで待機しているのは背が高い女性。


 真っ直ぐ姿勢を保ちながら、こちらに来るであろう者達を待っている。腰まである艶やかで長い髪。黒と濃い紺を混ぜたような夜空色だ。白桃のように透明感のある瞳。睫毛はしっかり上を向いている。熟れた柘榴のように赤い唇の側には黒子が一つあり、それが彼女の色気をより増していた。


 民族衣装のように腕と足が全て隠れる長い袖と裾を持つ服を着ているが、豊満な胸元はまるで見せつけるように大きく開いている。一瞬で女神、もしくは天女のように見える彼女の風貌は、男性の視線を全て掻っ攫うことだろう。


「……なんで俺まで」


 隣にいた青年が溜息をつく。


 亜麻色のさらさらとした髪。蒼い瞳。その色、顔立ちから一見美青年なのだが、舌打ちをしていた。育ちはどうやら良さそうではない。隣の美女は質の良い生地でできた洋服だが、彼はかなり軽装だった。


 美女は微笑む。


「顔見知りであるあなたがいれば、彼女達も親近感が湧くでしょう?」

「……どこが顔見知りだよ。魔法で勝負吹っかけて負けたのこっちなんだけど。それに俺、もうアルトダストの傭兵じゃないんだけど」

「お金さえもらえたらなんでもする。それが傭兵でしょう?」


 リオは黙った。


 それは的を得ていることを示している。と同時に、これ以上この女性と話したくなかった。金さえあればどんな仕事でもする。だが彼女の魔法で散々な目に遭ったのだ。できれば関わりたくない。


 すると美女――ラウラは少しだけ首を傾げる。


「そんな顔しないで。せっかくの美形が台無しだわ」

「うるせぇな。俺に構わずどっか男拾ってこいよ」

「この近辺の男性は全て声をかけてしまったもの」


 あっさり言われ、うげ、とリオは若干引く。


 この見た目に騙されて近付いてくる男性が多いのは知っていたが、既に手を出し尽くしていたか。ラウラは見た目のみならず特殊な魔法を使う。一つは幻覚。相手が望む、もしくは自由自在に夢や幻を見せる。魔法で相手を意のままに操ることも可能だ。厄介な魔法を使うのだが、実は他にも厄介なことがある。リオはその経験があるからこそ彼女が嫌なのだ。


 ラウラはとろけるような笑みを浮かべる。


「彼女達が来た後に側近の方が来るんでしょう? 楽しみだわ」

「…………」


 王族から誰が来るのかの情報はもらっている。


 その中で彼女は気に入った人物がいたらしい。リオも予想していた王子の側近。案の定自分の物にしたいようだ。


(……どうなるか)


 アルトダストの内情やフィーベル達のことなど、リオは直接的に関係はない。だが、城で話したクライヴの横顔を思い出す。どことなく先を見据えていた様子に、おそらくこの国で何か起こすのだろうと、そんな予感があった。

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