第2話 ひとなつの始まり その2

「「ごちそうさまでした」」


 あれだけあったそうめんの山も二人がかりで挑めば案外大したことはなかった。


 真衣奈が空いた食器を片付けるのを見計らって俺は胸ポケットに入れておいたタバコに火をつけた。決して明るいとはいえない蛍光灯に反射しながら紫煙がゆらゆらと漂っていた。


「先輩またそんなもの吸ってる。タバコばかり吸ってたら背が伸びなくなるよ」

「バーカ、俺の成長期はとっくに終わってるよ。そんなことより煙たかったら外に出てるけど」

「いいよ。ここは先輩の部屋なんだし、それにわたしもこれ片付けたら帰るから。あんまり遅くなったらお父さんになに言われるかわかんないしね」


 カチャカチャと食器を洗っているため、真衣奈がどんな顔をしているかまではわからなかった。けど、声が弾んでいるみところをみるときっと笑ってるのかもしれない。


「祐介さんなにか言ってたか?」

「別に悪い話じゃないよ。それどころか『お前はいつになったら翔吾のところへ嫁にいくんだ?』ってうるさくって」

「あの人まだそんなこと言ってるのか」

「うん。あ、そうだ、お父さんがたまには俺のところにも顔出せって言ってた」

「どうせろくな話じゃないんだろうけど、そう言うならたまには会いにいくかな」


 タバコをもみ消すとどうやら真衣奈のほうも片付け終わったようで、持参したエプロンを外しながら帰り支度を始めていた。


「それじゃ帰るね」

「家まで送ろうか? 祐介さんにも会いたいし」

「ううん、いい。今日メット持ってきてないし、この時間のお父さんお酒飲んでるから捕まると長いよ?」

「だったらまた今度だな」


 そう言って真衣奈とは部屋の前で別れた。


 カンカンカン、と階段を下りる音を聞きながら部屋のドアを閉める。さっきまで賑やかだった部屋の中はうら寂しい空気が漂っていて、たった六畳一間しかないこの部屋が妙に広く感じた。


「彼女か……そんなのいたら楽しいんだろうな」


 しかし二秒後に馬鹿な考えだと思い、二本目のタバコに火をつけてそれ以上考えるのをやめた。





 その日、同じ大学の友人でもある中村大樹から電話がかかってきたのは、夕方ごろのことだった。


「もしもし、翔吾? お前、今時間あるか!?」


 通話ボタンを押した瞬間に聞こえたのはそんな大樹の慌てたような声だった。


「どうした、単位でも危ないのか?」


 冗談めかして言ってやると、案外それは的を射ていたようで「お前……それを言うなよ……」と、電話の向こうで肩を落とす姿が見えた。


「それよりもなにか用か? ずいぶんと慌ててるみたいだけど」

「そうだ! 今は単位どころじゃないんだよ! あ、単位も大事だけどよ、それよりも大事なことがあるんだ」


 携帯のスピーカーが割れんばかりに声を荒げる大樹に、とりあえず落ち着けと促す。


 単位以上に大事なものってなんだ? 大樹がこれほどまでに焦っていることを考えてみても、よほどのことじゃないというのだけはわかった。


「それで大事なことってなんだ?」


 言葉に真剣味を込めてそう聞き返した俺の言葉に大樹はこう答えた。


「今から合コンなんだけど、人数足りないからお前に電話した」


 プツッ。ツー、ツー。


 あまりのバカバカしさに思わず通話を切ってしまった。もちろんその二秒後には携帯が鳴って、


「お前なに切ってんだよ!? こっちは必死なんだぞ! それどころじゃないんだぞ!」


 と、再び声を荒げていた。少しでも心配した俺がバカだった。


 大樹の話を簡単に説明すると、同じゼミの仲間が企画した合コンに参加することになったらしい。だが、相手の人数に対してこっちの人数が一人足りないから人数合わせってことで連絡してきたらしい。大樹が必死に説明している間中、何回か通話ボタンを押しそうになった。


「それでどうだ? 来てくれるか?」


 どうするか。


 携帯に表示されていた時刻は午後五時。今日はバイトもないし、明日は大学も休みだ。


 少しだけもったいつけながら「わかった」とだけ返すと、電話の向こう側からは「そこはいいとも~! だろ」という返事が返ってきたので、俺は即座に通話ボタンを押した。



 駅前の周辺では、明日が休日なこともあってか、いつもなら家路に帰るはずの人間が行き交っているこの場所は普段より人が多い気がした。会社帰りのサラリーマンや学校帰りの学生の姿も見える。


「遅いな」


 携帯を見ると約束された時間を少し過ぎていた。出来るだけ待たせないようにと気をつかって来たのに。ったく……これじゃあ合コンを楽しみにしてる奴みたいだ。


 ガタン、ガタン、と俺がさっきまで乗っていた市内電車が通り過ぎていく。ここは全国でも珍しい市内電車が走っている町だ。いつもどこかへ出かける時はバイクを使うけど、今日に限っては市電に乗ってきた。何年ぶりかに乗った市電は記憶の中にあるそのままのもので、子供の頃は流れていく風景に目を輝かせたものだ。


 Yシャツの胸ポケットからタバコを取り出す。煙を吐き出すと、タバコの香りに混じって初夏の匂いがした。


 ぼんやりと街ゆく人を眺める。みんな慌ただしいように生きている。その中で俺はどこか取り残された気がしていた。


 変わるもの。変わらないものの中で俺はどう変わったのだろうか。もしかしたらなにも変わってないのかもしれない。


 らしくないな。つらづらと暇つぶしがてらにそんなことを考えていた。けれどそんな頭の体操にもならないことを頭の中で巡らせていると、持っていたタバコの灰がポロリと落ちた。


 すっかり短くなったタバコをもみ消すと、ようやく大樹がやってきた。


「悪い、待たせたな翔吾」

「遅いぞ。なにしてたんだ」


 俺が携帯灰皿に吸殻を放り込みながら文句を言うと「いや~、ほんっと悪い! 直前まで服選んでたら遅れた」などと、さして悪びれた様子もなく言った。


 ……ったく。いつものことだとわかってるけど、せめて耳の垢分くらいは申し訳ないと思ってくれてもいいと思う。


「んで、勝算は?」

「もちろんバッチリだ」


 俺が嫌味交じりに聞くとずいぶんと気合が入っているらしい大樹は、ニヤッと笑みを浮かべながら右手でサムズアップ。それが気合の表れなのか、Tシャツにプリントされた『NO FUTURE』の文字がなんとなく彼の未来を暗示しているように見えた。


 大樹に連れられてやってきたのは、駅前のテナント群が入居しているビルにある居酒屋だった。


 ここも変わったな。俺が高校生だったころ、よくここに買い物に来ていた。けど、卒業してからはめっきり立ち寄ることも少なくなっていた。久しぶりに訪れた場所はあの時に比べるとすっかり様変わりしていて、俺の記憶の中と同じ姿で今でも残っている店といえば、大学生の寂しい懐にも優しい大手チェーンのイタリアンレストラン一つっきりだった。


 居酒屋の中に入ると、すでに席には五人ほどの男女の姿があった。男二人のほうは大学で見かけたことがあるだけで、直接話をしたことはなかった。女の方は言うまでもない。


「おーい連れてきたぜ。あれ? そっちは三人か?」


 大樹が女性陣に声をかける。どうやら幹事は大樹のようだ。


「ううん、こっちも四人だよ。もう一人の子は後で来るって」

「そっか。じゃあさっそく始めますか。せーの」

「「「かんぱーい!!」」」


 大樹の号令で計七つのジョッキがぶつかった。キンキンに冷えたジョッキから滴る水滴がはねた。


 そのままの勢いで喉に流し込むと、じんわりとした苦味と爽快感が体中を駆け抜けた。


「いい飲みっぷりだな」


 横で同じようにビールを飲んでいた大樹が話しかけてくる。


「ま、せっかくだからな。俺なりに楽しむさ」

「せいぜいくたばんなよ」


 それだけを言い残すと、本命の女の子でも見つけたのかさっそく話かけていた。見れば大樹だけじゃなく、ほかの奴らも気に入った女の子にアタックをしかけていた。


 ご苦労なことで。


 大樹が離れたのを見計らって空いたジョッキを片付けると、新しいジョッキに手をつけた。


 しばらく一人で飲んでいると、いい加減それも飽きてきた。俺を除いた男三人はなんとか女の子を物にしようと躍起になってるが、それをどこか冷めた目で見ていた。女の子の方も気を遣ってか、俺の方に何度か話を向けてくれてきたのだが、思い浮かぶ言葉もなくて「ああ」とか「うん」とかそれっきりで、女の子の方も俺と会話をするのを諦めたのか、話しかけてくることはなかった。


 恋愛に興味がないわけじゃない。ただ、なんとなく実感がないのだ。


 話をしていい感じになって……それから?


 それからがわからない。大樹が言うには『男というのは女の子を得るためにいかなる努力も惜しんではいけない』なんて大層なことを言っていたけど、俺にはとうてい理解出来ないものだった。


 盛り上がっている場を壊すのも悪いと思って、席を離れようとすると大樹に呼び止められた。


「どこ行くんだよ」

「ちょっと飲みすぎたみたいだ。外の空気でも吸ってくる」


 適当な言い訳を並べて店を出た。


 外に出ると、街灯や店の明かりが賑やかしく夜の町並みを彩っていた。外を歩いている人もさっきよりはまばらになっていて、街ゆく人々はそれぞれの時間を楽しんでいるようだった。


 噴水が上る近くの水辺にあるベンチに座って、ポケットに入れたタバコに火をつけた。ライトアップされた噴水がキラキラ光るたびに、側で同じように見ていたカップルが歓声をあげていた。


 どこに行ってもカップルだらけだな……。


 恋は石ころみたいに溢れてるなんて歌が流行っていたけど、なるほど確かに石ころみたいにごろごろしている。そのあとでダイヤモンドよりも見つからないとも歌っていたけど。


 もし、あいつが転校しなかったら俺も、こんなふうにはしゃいでたのだろうかなんて時々、そんなことを思う。あいつが転校することなくずっとそばにいて、それで俺がちゃんとあいつに想いを伝えることが出来たんだったら……と。


 それこそありえない話だ。俺とあいつはただの友達にしか過ぎない。たまたま、同じ時期に一緒にいただけで、接点なんて同じ部活ぐらいなものだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 なに考えてんだ俺。バカバカしい。


 苛立ち紛れにタバコをもみ消し、ベンチから立ち上がろうとすると、不意に声をかけられた。


「あれ……もしかしてハカセ?」


 ドクンと鼓動が高鳴る。


 聞き覚えのある声。


 その時の俺は一体どんな顔をしてたんだろう。少なくとも目の前に鏡がなくてよかったと思う。きっと今の俺はずいぶんと呆けた顔をしていたはずだから。


「あ、やっぱりそうだ! ハカセだよね!? うわっこんなところで会うなんてすっごい偶然!」


 女性が嬉しそうに近づいてくる。すこし大人になったあいつ。俺をハカセなんて妙なあだ名で呼ぶ奴なんてこの世にたったひとりしかいない。


 ……ほんと妙な偶然だよな。


 嬉しさをごまかすように悪態をつく。


「久しぶりだねハカセ」


 そう言ってあの時と同じように子供みたいな笑顔を向けてくる、長谷川紗季が俺の前にいた。

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