拳骨
ノーアはかつて自分の部屋を
部屋には窓に相当するものはなく、
そんな考えは何度目かの食事で打ち破られた。
ノーアは器の中に、やけに鮮やかな緑色が混じっている事に気付いた。よく見ればそれは混入した
『書記官ルフルの次期分化生命体、通称レアは甚だしい精神汚染の為、廃棄処分が決定しました』
彼はそれを二度繰り返し読んだ。次の一回は声に出して。レアが廃棄処分? その語が何を意味するか理解出来てしまった。その短い一文は彼を糾弾しているようにも思えた。お前が余計な事をしなければ彼女は死なずに済んだのだ。あるいはそれは、己の意識の裏側から発せられたものか。空腹感も食欲も失せてしまった。彼は驚きのあまり立ち上がったが、それ以上の何も成し得なかった。
彼は再び蹲った。鉤のように強張った両手で頭を抱える。おれは死ぬ。レアも死ぬ。
脳髄の最奥がじりじりとした熱を帯びているような気がした。どうしよう、どうすればいい、こんな無念を抱えて死にたくない、誰かここから出してくれ。叫んでも応える者がいるわけもなく――
貴方は知っているはずです。人に頼らずとも、自力でここから出る方法を。
誰だ、誰かいるのか。
私の事は問題ではありません。貴方は知っているはずです。
もしかして、
考えるべきはそこではない。さあ
ノーアは、まるで昔から知っていたかのような滑らかさで口を動かした。声の正体については頭から押しやった。これを使う時は限界まで神経を研ぎ澄ます事が肝要なのだ。
〈
ノーアは寒さを感じた。脳髄から熾った熱が全身に及んでいた。この
〈
そしてそれは迸った。
食料管理局の通路を歩く
全身火達磨のエルフがそこにいた。しかし火を苦しんでいる様子はない。その様が当然だと言わんばかりだ。天使はそれが自分の顔に視線を定め、真一文字に引き結んだ口を開くのを呆然と見つめた。
「レアは」
「はい?」思わず声が上擦った。
「レア。書記官ルフルの娘。何処にいるのか教えろ」天使はそれの足元で凝土が溶けていくのを目にした。それはゆっくりと片手をこちらに
「ぶ、分化生命体の管理は
それが目を細めた。断じて笑っていない。その目は天使の後ろの壁に向けられていた。
ぼん、という音。それの足裏で火が爆ぜた。その爆発力によってそれは翼のない種族には通常不可能な軌道を描いて前方に突っ込み、突き出された腕は壁を瞬時に溶かして建物の外に躍り出た。
天使は背後の大穴を顧みる事もせずその場から逃げ出した。未知への恐怖、忘れたはずの恐怖は極点に至り狂った笑い声に変わった。
物陰よりファウスト博士とメフィストフェレスが現れ、壁の穴を一瞥した。
「さしたる用もなかりせば、これにて御免」よく通る声でそれだけ言うと二人はそこを去った。
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