拳骨

 ノーアはかつて自分の部屋を独房ツェレのようだと思ったが、その認識を改めねばならなかった。本当の独房には、普通の家屋や寝室にはない冷ややかさが横溢し、冬でもないのに身が震える。あの日、頭を強かな一撃が襲い――多分竜人メリュジーヌ拳骨ファウストだったのだろう――気絶から回復するとこの部屋に寝転がっていた。口の中で血の味がした。何処か切ったようだった。

 部屋には窓に相当するものはなく、テューアが一つ。最も、室内から開ける為のノブや取っ手もないので、壁の一つに四角形の切れ込みが入っているようにしか見えない。扉の下部には手が辛うじて入る程度の穴が取り付けられ――外側から幕を下ろしているので這いつくばっても何も見えはしないが――そこから食事が差し入れられた。薄い褐色の、穀物の粒子の集合体たるブライ。不味い。どんな痩せた土地で育てたらこんなにも滋養のない味わいの実がなるのかとノーアは思いを馳せた。辺境? わざわざ罪人の食事の為だけにこれを運んで来るのも変な話だ。あれこれ考えた後、恐らく家畜用の餌なのだという結論に至った。家畜は餌の味に文句を言わない。そしてこの自分、おれは、。おれは今や食われるエッセン為だけに生かされている。嗚呼、でも、レアの滋養エアネールングになれるなら、それでもいいかもしれない。

 そんな考えは何度目かの食事で打ち破られた。

 ノーアは器の中に、やけに鮮やかなが混じっている事に気付いた。よく見ればそれは混入した玉葱ツヴィーベルの鱗片だった。半透明の鱗片に、緑色の何かで文字が書かれていた。

『書記官ルフルの次期分化生命体、通称レアは甚だしい精神汚染の為、廃棄処分が決定しました』

 彼はそれを二度繰り返し読んだ。次の一回は声に出して。レアが? その語が何を意味するか理解出来てしまった。その短い一文は彼を糾弾しているようにも思えた。。あるいはそれは、己の意識の裏側から発せられたものか。空腹感も食欲も失せてしまった。彼は驚きのあまり立ち上がったが、それ以上の何も成し得なかった。

 彼は再び蹲った。鉤のように強張った両手で頭を抱える。おれは死ぬ。レアも死ぬ。冥府イェーンザイツでの再会を夢想する事は何の慰めにもならなかった。会って何を話すのだ。何と言って詫びればいい? それを思い悩む必要はない――誰かの声がした。死後の事を考えるな。お前達は。自分の声とは思えなかったがその内容は奇妙にもすとんと納得出来た。でも何故そんな事が分かるのだ、これは悪夢か? 「お前は悪夢を信じるのか?」泡沫のような言葉を発したのは己の口か無意識か、はたまた記憶か。だって、他に何もないじゃないか、こんな狭い部屋、何かを隠しておけるような遮蔽物はない、粥を掻き回しても他の玉葱は出て来ない。

 脳髄の最奥がじりじりとした熱を帯びているような気がした。どうしよう、どうすればいい、こんな無念を抱えて死にたくない、誰かここから出してくれ。叫んでも応える者がいるわけもなく――


 貴方は知っているはずです。人に頼らずとも、自力でここから出る方法を。

 誰だ、誰かいるのか。

 私の事は問題ではありません。貴方は知っているはずです。火の熾し方アン・フォイアーン。その炎を極限まで膨らませる呪文を。

 もしかして、母さんムッター

 考えるべきはそこではない。さあ夢想家トロイマーよ、思い描いてごらんなさい。何物にも脅かされない炎。万物を焼き尽くす炎。

 

 ノーアは、まるで昔から知っていたかのような滑らかさで口を動かした。声の正体については頭から押しやった。を使う時は限界まで神経を研ぎ澄ます事が肝要なのだ。

Salamander火神よ――〉

 ノーアは寒さを感じた。脳髄から熾った熱が全身に及んでいた。この独房ツェレは燃え盛る子宮ゲベーアムッター、あるいはケルンを抱く一個の細胞ツェレ、内奥で目覚めを祈って眠り続けたものが炎の産道から現れる。

soll gluhen燃え猛れ――!〉

 そしてそれは迸った。





 食料管理局の通路を歩く天使アポートルがいた。彼は妙な足音を耳にした。やけに速いピッチだが竜人メリュジーヌのそれにしては軽い。こちらに向かって来るその正体を見極めようとして、を見た途端に腰を抜かした。

 がそこにいた。しかし火を苦しんでいる様子はない。その様が当然だと言わんばかりだ。天使はが自分の顔に視線を定め、真一文字に引き結んだ口を開くのを呆然と見つめた。

「レアは」

「はい?」思わず声が上擦った。

「レア。書記官ルフルの娘。何処にいるのか教えろ」天使はの足元で凝土が溶けていくのを目にした。はゆっくりと片手をこちらにかざした。答えられなければお前を焚殺するとその目が厳然と語っていた。

「ぶ、分化生命体の管理は生体管理官セージュファムに一任されている、されています。此処を出て右手に真っ直ぐ行った所にある高い塔がそうです。喋りました、殺さないで、お願い」此処を指す腕が恐怖故に意志に反して滅茶苦茶に回された。

 が目を細めた。断じて笑っていない。その目は天使の後ろの壁に向けられていた。

 ぼん、という音。の足裏で火が爆ぜた。その爆発力によっては翼のない種族には通常不可能な軌道を描いて前方に突っ込み、突き出された腕は壁を瞬時に溶かして建物の外に躍り出た。

 天使は背後の大穴を顧みる事もせずその場から逃げ出した。未知への恐怖、は極点に至り狂った笑い声に変わった。





 物陰よりファウスト博士とメフィストフェレスが現れ、壁の穴を一瞥した。

「さしたる用もなかりせば、これにて御免」よく通る声でそれだけ言うと二人はそこを去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る