食料
「ゆうべ眠れなかった?」食堂の席で向かい合うポーリアが半ば断定に近い疑問形で尋ねた。
「まあ、ちょっとね」ノーアは垂れ下がる瞼を指でこじ開けながら答えた。
「なかなか酷い隈。恋愛詩人さまが眠れないとは、よっぽど悶々とした夜を過ごしたんだろうねえ」彼女はノーアの事情など知る由もない。故にけらけらと嗤った。
ノーアが眠れなかったのは恋の煩悶などではなく恐怖の為だった。自分達が食べられるかもしれない、と言うのは別に構わない。いっそ愛する人に食べてもらえるなら、その血肉となれるなら本望だろう。問題はその
「ところでさあ、ノーアは聞いた? 例の噂」ポーリアは空の食器の前に肘をついた。
「噂?」勿論知らない。ノーアはここでは孤立しているのだ。目の前に座る小柄な先輩はどういう訳だか――人気作家だから周囲から何かと声を掛けられる事が多いのだがノーアはそれを知らない――
「何かさ、
「えー、それはつまり、どういう事なの」寝ぼけ
「術式が
ノーアの眠気が吹き飛んだ。「……上手くいくのか、それ」
「今までに蓄積された作品のデータからうまい具合に単語やら音、色を置いていくんだって。まあまだ運用試験中らしいけど。でもそう遠くない内に実践投入されるだろうって話。そうしたらどうする? 田舎に帰って
ノーアは仕事を有難いと思ったのはその日が初めてだった。仕事中は少なくともそれ以外の事を考えなくて済む。彼はレアの事を思い浮かべ、会えない辛さを滔々と書き連ねていた。そうしていれば少し気が紛れた。
パッと見た限りではいつも通りの職場。だが皆の気が立っているピリピリした空気は自閉的なノーアにも感じ取れた。ポーリアが朝に語った噂、あれが知れ渡っているからだろう。穏やかな職場を追われるのが嫌なのは誰も彼も変わらないのだ。
終業のメロディが鳴り始めるとほぼ同時にノーアは席を立った。ポーリアを始め他の先輩や
一足飛びに階段を駆け下り、敷地を飛び出す。守衛が何か言っていたが立ち止まっている余裕はない。一刻も早くレアに会わなければ、という思いだけが前へ前へとノーアを衝き動かした。
青色の外壁が見えた。近づくにつれて細部まで見えるようになる。しかし、「いない……?」バルコニーは無人だった。ノーアは呆然と立ち尽くして窓辺を見つめた。ゆるゆると鮮紅色の夕陽が沈んでいき、夜の帳が降りても彼女が現れる事はなかった。
彼は知らなかった。
日の落ちた街を夜の闇が覆うように、ノーアの思考もある考えに覆われた。
即ち、議会襲撃に参加しようという意志。そこでなら、きっとまた彼女に会える。そうすれば、きっと何もかも解決する。飛躍した確信は
風呂桶の中央に立ち、女中達が――全員が下級の
石鹸の泡をまんべんなく洗い流すと、今度は柔らかく吸水性の高い布で全身を拭われる。レアは終始為すがままだった。女中の一人が持って来た寝巻を着用する際に少し姿勢を変えるだけ。
風呂場から出て来た
「今度の議会には、とびっきりの一張羅を着て行こう。明日、
「うん? 何か言ったかい?」
「いいえ……」今度ははっきりとそう言った。
誰にもその真意は読めなかった。
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