夢を見ていた。

 記憶の中ではぼやけた顔しか持たない両親が、そこでははっきりとした輪郭を具えていた。彼らは罰則として失ったはずの目や指さえ取り戻していた。どこまでも穏やかな表情で二人は並んで座っていた。収穫を待つ黄金の麦が静かに揺れている。

 ノーアの目から涙が溢れた。その理由は分からない。これまで一度も父母を思って泣いた事などなかった。

 ノーアの両親――アーヴィッドとテレジア――は結婚して二人の子供をもうけた夫婦と言うより、同じ学問を志す同志のようだった。彼らの振る舞いには所帯じみた匂いがほとんどなかった。独身で子供もいない叔母の方がよっぽどに見える事さえあった。ノーアは母親が叔母より長い時間厨房にいたところを見た事がなかったし、父が(他の家庭のように)家族の誕生日を祝う仕度をする場面を見た事もなかった。二人の会話はもっぱら禁忌の術式の研究についてを隠語を用いて語る事に終始した。

「新しい鎌がもうすぐ届く。玉葱の皮を剥いておくのを忘れるな」

「ええ、アーヴィッド。麦にやる肥料がもう少し欲しいのだけれど、そちらの手配はどうかしら?」

 このような具合に農夫バオアーンの夫婦の会話に偽装していたのだ。幼い子供達にはそれが何を意味するのか察するのは不可能であり、日中の夫婦は黙々と農業に従事しているようにしか見えなかった。

 然るに、あの二重底だった。

 夢の世界に在るノーアの両目が駆けて行く女の子の背中を捉えた。髪を顎の辺りで切り揃えた格好が母親によく似た、それは幼年期のアレグザンドラ、普段はアルと呼ばれるノーアの妹だった。小さな背が同じ集落に住まう叔母の家へ走る。夢特有の唐突さでノーアの視界が叔母の家の中に移動した。アルが叔母さんに何か伝えている、息を弾ませながらも何処か誇らしげに。

「あたし、見たわ。お父さんとお母さんが机に古い本を隠してる。きっと持っていてはいけない本だわ。だってそうじゃなきゃ、こそこそ隠したりしないもの」

 頭を殴られたような衝撃。ノーアは一時、それが夢の中であるという事を忘れた。。その結果として彼らは蒸発した。裏切り者、と怒鳴ろうとして、また視点が両親と向かい合っていた。

「怒ってはいけない」父が言った。かつて耳にした、教え諭すような口調で。「怒りこそ究極の無知なのだ」

「いずれこうなるとは思っていました」母が次に言葉を紡いだ。「あの娘アルは何も間違っていません」

「我々は呪われていたフェアフルーフトのだ、研究の徒として。どれだけの罰を受けてもやめる事が出来なかった」

「私達は子供に賭けました。呪いを振り切って、この世界にとって人間に育つ事を願ったのです。半分勝ち、半分負けました。それでも二人とも大切な子供に変わりはありません」

「アンドレアには気をつけろ。あれesは隠し事を山程抱えている。我々はあれの言う『玻璃の翼』の秘密に近づき過ぎて破滅した」

「出来る事なら関わらないで欲しかったのですが、最早どうしようもありません。必要以上に何かを受け取ったりしないように。あれは恐ろしく悪辣です」

「お前は書物ほんの最初の方しか読んでいなかった。を最大限に増幅させる呪文アオスドルックを教えておこう。『火神よ燃え猛れSalamander soll gluhen』と唱えるのだ。勿論、意識の集中を極限まで高める必要もあるがな。迂闊に口に出してはならない。それだけ強力であり反動も大きい呪文だ」

「本来ならもっと丁寧に教えるべきでしょうが、時間がありません。あなたがせめてあの忌々しいフェアフルーフトアンドレアから余計なものを受け取らないように先回りしたのです。どうかアルを――」そこから先は言葉ではなく旋律になった。これは聞いた事がある、いや両親の口からこんな歌が出た事はない。周囲がぼやけていく中で藻掻くうち、ノーアは寝台に仰向けで寝ている己を見つけた。旋律は起床時間を告げるものだった。

 目尻に溜まっていた涙が滑り落ち、髪の中に消えた。

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