Shout it I wanna know who I am

 その日は珍しく保安班長が先に現場に来ていた。

部屋を閉めておいてやったぞ。これで満足か?」

「感謝します」皮肉は適当にあしらう。エリヤは戸を開けた。

 細部は違えど似たような光景はこれでだ。天井まで届く血飛沫。塗りたくられた朱。壁の文字。

『Shout it I wanna know who I am』

 匂いを嗅ぎ取る。どうせこれも被害者の血だろうと思っていたが、そこには違うものが混じっていた。

 壁の血文字を舐めた。犯人は手に怪我をしていて――恐らく被害者と揉み合いになって――その手を刷毛替わりに壁に文字を書いたのだ。

 舌先に意識を集中させ目を閉じる。死者の最後の記憶――恐怖だ――の広がる中に異物が佇むのを感じた。歓喜と興奮。匂いから察するに種族は――

「犯人は天使アポートルです、班長」

「動機は」

「犯人は被害者を殺す事に喜びを感じていました。恐らく怨恨、それも計画的なものだと思います」

「よし分かった。帰っていいぞ」

「お先に失礼します」天族セレスティアの交友関係なぞは彼が知ってはいけないものである。後は他の捜査員が呼ばれるのだろう。非合理的ウンラツィオナルだとは思うがしかしそれを言ってもどうにもならない事も分かっている。エリヤは回りくどく進化した『社会』という個体の細胞ツェレの一つに過ぎないのだ。

 車庫に戻り、置いて行ったカバンを拾う。彼はその中に薄い欠片のようなものを見つけた。摘み上げるとそこには文字が書いてあった。

――何者か知りたくば、監督官アンドレアに教えを請え。覚悟を持って。

 読んだ途端にその有機的な欠片は青白く燃え上がった。

「――ッ!?」思わず取り落とす。それは地面に落ちる前に、まるで溶けるように完全に消えていた。燃えかすすら残らず。

 エリヤの脳髄をフラーゲンが埋め尽くした。今のは何だ。の形を見た事がある気がするが、どこでだったか。それにあの内容。何者か知りたくば。事件の概要は表向き混乱を防ぐために公表されていないはずだ。壁の血文字さえも。を置いて行った人間は事件の事を知っている? 何故ここで監督官の名前が出て来るのだ。とはどういう意味だ。

 幽かに焦げ臭い匂いがエリヤを現実に引き戻した。誰かに話すべきだろうかと考えてそれを自分で否定した。最早証拠は拡散され消えつつあるこの匂いだけだ。それに班長との連絡手段は一方通行で、自分から向こうへ接触コンタクトする方法がない。

 ファレという単語が頭にちらつく。送り主はうかうかと獲物がやって来るのを待っているのかもしれない。仮に犯人からのものだとして、監督官の名前を出すのがどうも引っ掛かる。まるでアンドレアが下手人だと言っているようなものではないか。

「らしくないな、まったく」そこまで考えて、エリヤは独りちた。自分はあれこれと思索するような性分ではなかったはずだ。自分は畢竟ただの歯車、そう決めたのは随分前だ。

 カバンを肩に掛け、ハンマーを取り出す。自分に求められているのは労働だ。取り合えず、終業時間になったら監督事務所に行ってみよう。あすこは監督官の住居も兼ねているから、会いに行く事は出来るだろう。

 焦げ臭い匂いはもう消えていた。





 終業の音楽は何処か物悲しげだ。まるで労働者にと訴えるような響きを孕んでいる。しかしエリヤはそれを解さない。入り口のロッカーにカバンを押し込んで外に出る。春先の夜は未だ身に染みる寒さを残している。

 道中、配給物資を満載した地走車くるまとすれ違った。丸い球根が山と積まれている。ふいにあの欠片の正体を思い出した。玉葱ツヴィーベルの鱗片だ。獣人にとっては毒であるがエルフアールヴ達が良く食べているもの。食堂でスープの中に入っていた透明な野菜にはそっくりだった。毒物を送り付けられたと知ってエリヤは暫し悩んだ。罠の気配が一段と濃くなったように思われた。しかし好奇心がそれを抑えた。

 蛍光石ランプの目映い輝きが満ちる街並みは昼と変わらない程明るい。故郷の森では考えられない事だった。エリヤは弟の一人を思い出した。あいつは俺なんかよりずっと頭が良かった。親父のような技師、いやそれ以上にだってなれただろう。動力整備の仕事を言い渡された時は自分の事のように喜んだものだ。それなのに、どうして突然したのだろう。

 エリヤは弟の事も監督官が答えを知っているように思えて来た。地族エーアトロイテの人事権を掌握する存在。彼は教えてくれるだろうか。

 呼び鈴を鳴らすと竜人メリュジーヌの男が出迎えた。保安班長とは違う愛想の良い笑顔を見せた。「あー、訓導せんせーは今ご飯の時間なんだけど。どういったご用件で――」

「何者か知るために来た」

 エル=アセムは首を傾げた。「ああ、せんせーの言ってたお客さんか。入って、どうぞ」

 エリヤは光の中に入っていった。

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