第36話 DBの家の事情①

 あの日、「父親」が亡くなってからというもの、彼の周りには急に人が増えた。それまでは家の敷地の片隅で一人で気楽に過ごしてきたというのに。

 そんな「妾宅」のなれの果ての場所に住まわされている子供など、見向きもしなかった大人達が、いきなり彼を構いだした。その豹変ぶりに、彼はまず戸惑った。

 そして「兄」の態度も。

 それまでは、たまに彼の離れにやってくるだけだったのに、急に彼を連れ出すようになった。例えば傘下の会社、例えば様々な催し。

 これからこんな機会がどんどん増えるから、慣れるように、と「兄」は言った。

 冷静に、ひどく当たり前のことのように。

 彼はその言いつけには従った。そこで言われるようにできなかったら、それはそれで、困ることになるだろう、そんな予感がしていたのだ。


 だが。


「一朗さんは何故、あれに最近目をかけるようになりました?」


 そんな声が、聞こえた。

 広い庭である。たまたま、「父親」の仏壇に飾る花を探しにきた時だった。「父親」の姉の声だ。

 誰と話しているのだろう、と彼は立ち止まり、気配を消して耳を澄ます。すっかり、そんなことが得意になってしまっていた。


「当然でしょう。世の中にたった一人の血を分けた兄弟だ。私がそうしなくて誰がそうしますか」

「それにしても最近のあなたのご様子ときたら」


 責める様な口調で、だがそこまでで彼女は言葉を濁す。


「伯母様」


 「兄」は、そんな彼女に短く、しかし厳しい口調で切り返す。


「現在のこの家の当主は私です。たとえ伯母様といえども、私の決めたことには従っていただきたい」


 彼女は黙った。薄い口元はぴくりとも動かない。まっすぐに「兄」を見据えるその視線も微動だにしない。


「ようございます」


 そして唐突に、その言葉は飛び出した。一体いつ。彼は息を呑む。


「ご当主のお好きな様になさいませ。確かに私ごときが口を出す所存ではございません。しかし」

「しかし。何でございましょう、伯母様」

「同じ畑に植え替えられたとは言え、元は違う苗。種類が同じとて、上手く根付くとは限りません」

「それは、あれが決して私にとって訳に立つ存在になるとは思えない、ということですか」

「私はただ、そういうことはある、と申し上げているだけです」


 ちら、とその視線が動く。彼はびく、と身体を震わせた。気付いているのだろうか。気付いているのかもしれない。心臓の鼓動が激しくなり、耳にうるさく感じられる。


「そうですか」


 「兄」はそう言って、その場から立ち去った。だが彼は、なかなか足が動かない自分を感じていた。

 下手に今動いたら、持っていた花を落としてしまう程、震えが全身に広がるような気がしていた。今は。今だけは。

 しかしその緊張は、意外な方向から破られることになった。


「大介」


 は、と彼は身体を固くした。彼女だ。彼女はそのまま、音も立てずに、縁側から降りてきた。

 彼は当初、彼女の口から出たその言葉が、自分の名前であるということをなかなか認識できなかった。彼女がその言葉を口にするのは、初めてだった。

 少なくとも、自分に向かって発せられたことはなかった。


「居るのでしょう? 出ていらっしゃい」


 静かな声だった。だがそれは、彼に逆らうことを許さないものだった。彼はゆっくりと立ち上がった。


「綺麗な花」

「……あの、お供えしようと思って……」


 語尾が震えるのが、判る。ただ立っているだけなのに、ひどく、怖い。


「そう、それは良かった」


 一体何を。そう思いながらも彼はその場から動くことができなかった。その一方、彼女は一歩一歩と近づいてくる。


「今のお話を聞いていたのでしょう?」

「……は、はい」

「あなたは、どう思いまして?」

「どう……」

「ご自分が、この家に合った人間であるのか、ということですよ」


 静かな口調のまま、それでもきっぱりと彼女は言った。問いかけの形を取っているが、そうではない。

 彼女はこう言っているのだ。


 お前はこの家にはふさわしい者ではない。


 彼は微かに目を細めた。ああやはりこのひとは、気付いている。

 そして、それが自分の希望であることも。


「……いいえ」

「そうですね」


 そうですか、ではなく、そうですね、と彼女は口にした。お前もそう思っているのですね、と。


「なら、自分のすべきことをなさい」


 はっ、と彼は顔を上げた。静かな顔が、やはりそこにはあった。


「一朗さんは、あなたに夢を見すぎている。度を過ぎた期待はお互いのためになりません」

「……僕も、そう思います」

「では、そうしなさい」


 抑揚の乏しい声は、そう彼に命じた。そして声の主は、すう、と吸い込まれる様に家の中へと消えていった。

 そうしなさい、と彼女は言った。

 そうしなさい。この家にふさわしいものではない自分は、ここに居るべきではないのだ。それが自分には似合っているのだ。

 そうだ、と彼は思った。もう既に、中学を卒業し、高校ももうじき終わる。

 あの時。母親に捨てられた時の様な、子供ではないのだ。

 「父親」の姉の言葉は、もしかしたら、単に妾腹の彼を嫌いだから発されただけなのかもしれない。その可能性は高い。

 彼女と彼は、この家でそれまで、一度たりとも直接言葉を交わしたことはなかったのだ。顔を合わせることもなかった。避けていた、と言ってもいい。


 なのに。


 出ていかなくてはならないのか、という気持ちが起こると同時に、出て行ってもいいのか、という気持ちが沸き上がる。彼女の行動は簡単で、そしてひどく正しい、と彼は思った。

 血がつながっているからと言って、強いられる必要はないのだ。育てられたからと言って、義務のように従う必要はないのだ。

 ただ、その後の始末は自分でつけろ、と。


 さあっ、と自分の中に風が吹き込んでくるような気がした。


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