第30話 「涼しい所」の渡り歩き

 しばらくあちこちの「涼しい所」を二人して渡り歩いた。

 店の中やデパート、地下鉄だけではない。区民センターや区役所、図書館といったところも「涼しいところ」には違いなかった。

 備え付けのソファに並んで座っては、しばらくだらだらとやって来る人々の姿を眺めている。自分たちをちら、と見てはまた目をそらすその人々を見ながら、P子さんはつぶやいた。


「別に髪の色くらい、誰でも変えますよねえ」


 確かに、とDBは思う。ただ真っ赤にする人はそういないというだけで。

 十年くらい前までは、ちょっと色を抜いただけで大騒ぎされたというのに、今ではまあそれもありだな、と思う人が増えて。

 それでも唐辛子の様な真っ赤は滅多にないから。

 区役所から税務署、図書館を過ぎてしばらく坂をだらだら歩くと、妙に緑が多い場所に出た。


「こういうとこもあるんだ」

「ああ、赤門が近いですからね」

「赤門?」

「東大の正門。知らないですか?」

「それはもちろん、東大は知ってるけど…… こんな緑が多いんだ」

「都内ったって、結構自然はあるんですよ。特に学校だの公園だのっていうのは、何かと」

「P子さんの学校もそうだった?」

「んー…… どうだったでしょうねえ。ワタシそーんなに学校の記憶って無いですから」

「そう?」

「そ」


 P子さんはそれ以上は言わなかった。別に言っても構わないことではあったかもしれない。ただ言う必要も無いと思ったのかもしれない。


「僕の通ってた学校は、逆に緑とかって無かったな」

「そうですか?」

「うん。開発地域みたいなとこで。味気なかったなあ」

「それでもちゃんと学校には行ったんでしょう? ならまあいいじゃないですか」

「そうかもね」


 DBはうなづいた。そう。確かに行ったことが無いよりはずいぶんとましだ。

 少なくとも彼の記憶の中、学校とそれにまつわる出来事が自分自身を傷つけたことはない。


「P子さんはちゃんと学校には行きたかったの?」

「さあどうでしょう。今となっては判らないですね」

「判らない?」

「行ってたら、今のようにギターだけ弾いて、まあ時々つまらない取材とかもありますがね、そうゆう好きなことでやっていけるひとになっていれたかどうかは判らないでしょう?」

「そう言えばそうだね」


 学校へ行かなかった彼女だったからこそ。


「まあワタシの場合は、あまり身体丈夫じゃなかったこともありますしね。ある日いきなり、面倒になってしまったんですよ。全部」

「全部?」


 全部とはただごとじゃない。


「でもまあその時には、それがどういう気持ちなのか、うまく自分にも説明できなかったですからね。ただもう全てが面倒だったから、学校にも行かずに、だらだらと、毎日過ごしてただけ、なのかもしれませんがね」

「後悔してる?」

「やってしまったことですよ」


 今更言ったところで、どうにもならない。そんな意味がこもっているように彼には思えた。


「それよりまた移動しましょうか。いい加減喉も乾いたし」

「あ、そうだね」



「あのですねえ」

「はい?」


 DBは差し向かいの席で、砂糖とクリームを入れたコーヒーをかき回す。このショップオリジナルの紙コップはひどくデザインが派手だ、と何となく彼は思う。


「ああ、何でもないです」


 黙って首を傾げる。もう何度目だろう。

 あちこちで、座れる場所に来て落ち着くと、何かをP子さんは言いたそうにしている。話を切り出そうとしている。だがそれをこうやって必ず止めてしまう。


「何か、僕に言いたいことがあるんじゃないの?」

「あることはあるんですが、いまいちどう言っていいのか、判らないんですよ」


 そうやって言うあたりがP子さんなのだが。ふうん、とDBはうなづく。P子さんの前には、コーヒーショップなのに、リーフティのミルク入りが置かれている。


「前から、紅茶好きだったっけ?」

「ちょっとコーヒーが最近いまいちで」

「やっぱりまだ、身体の調子良くないんじゃない?」

「まあ本調子ではないですがね」


 そのことで、何か判ったことがあるのだろうか。

 疑問には思うのだが、突っ込んでまで、聞けない。このひとのことだから、そう聞いても、はぐらかすか、言える本当のことしか言わないだろう。



 そして夕方が来たら、東京ドームの外野席で、ビールとつまみと弁当を適当につまみながら、ゲームを観戦した。

 確かにこれは「見る」ものじゃないなあ、と点のようにしか見えない選手が動くのをDBは確認した。



 何だろうなあ。


 P子さんは思う。


 夜明け前に、目が覚めてしまった。

 開け放した窓から入ってくる空気が涼しい。露をはらんだ、あの特有のにおいが漂ってくる。

 別に悪い夢を見た訳でもない。なのにふと目が覚めてしまった。彼女にしては珍しいことだった。

 横ではDBが気持ちよさそうに寝息を立てている。何かする訳でなくても、二人でくっついて眠るのはは好きだった。落ち着ける。

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